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人 名 辞 典 《ち》 編集:獨 澄旻
-------- ち ----------------------------------------------------
ちあき みのる
千秋 実
1917. 4.28(大正 6)
1999.11. 1(平成11)
◇映画俳優。本名は佐々木勝治(カツジ)。北海道恩根内村生れ。
呉服・洋品雑貨店の3男として生れる。
1936(昭和11)中央大学専門部法科在学中、新築地劇団に研究
生として入団。同年11月、築地小劇場での劇団公演、山本有三
作『女人哀詞』で初舞台。
1946. 5.(昭和21)薔薇座を結成。
1949(昭和24)黒沢明監督の『野良犬』で映画初出演。
1954(昭和29)黒沢明監督の映画『七人の侍』に出演。
1975(昭和50)脳内出血で倒れる。
1985(昭和60)伊藤俊也監督の映画『花いちもんめ。』で日本
アカデミー賞主演男優賞、受賞。
1989(平成元)勲4等瑞宝章、受章。
1999.11. 1(平成11)急性心肺不全のため東京都府中市の府中
恵仁会総合病院で死去。
ちかずみ じょうかん
近角 常観
1870(明治 3.12.23)
1941.12. 3(昭和16)
◇宗教家(仏教)。
(3)誕生日は12.23。
(9)誕生日は 4.24。
ちかまつ かんろく
近松 勘六
⇒ちかまつ ゆきしげ(近松 行重)
ちかまつ しゅうこう
近松 秋江
1876. 5. 4(明治 9)
1944. 4.23(昭和19)
◇小説家・評論家。本名は徳田浩司、初期筆名は徳田秋江であっ
たが、徳田秋声とまぎらわしいので1911(明治44)ころ改名。岡
山生れ。1898(明治31)東京専門学校(現:早稲田大学)文学部史
学科に入学、一年後に英語政治科に転じ、間もなく英文科に移
り、1901(明治34)卒業。
ちかまつ はんじ
近松 半二
1725(享保10)
1783(天明 3. 2. 4)
◇江戸中期の浄瑠璃作者。本名は穂積成章。没年は1784(天明 4)
・1787(天明 7)の説あり。
ちかまつ もんざえもん
近松 門左衛門
1653(承応 2)
1724(享保 9.11.22)
◇江戸前期の浄瑠璃・歌舞伎狂言作者。幼名は次郎吉のち信盛
(ノブモリ)・作左衛門、通称は平馬、別号は平安堂・巣林子(ソウリン
シ)・不移散人・不移山人。
◆近松忌(巣林忌)[11.22]。
◆近松祭[11.22]頃、墓のある兵庫県尼崎市の広済寺と近松記
念館で。
ちかまつ ゆきしげ
近松 行重
1670(寛文10)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。譜代の赤穂藩士、馬廻役、禄高250石。
通称は勘六(カンロク)、戒名は刃随露剣信士。吉良家探索中の変名
は森清助(セイスケ)のち田口三助(サンスケ)。近江国蛭田生れ。奥田貞
右衛門(サダエモン)行高(タカユキ)の異母兄。
討ち入りでは裏門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、
横山作之丞(サクノジョウ)の介錯(カイシャク)で切腹。
ちぐさ
千種
生年不詳
没年不詳
◇室町初期の能面作者。世阿弥と同時代の名工。
ちくさ ありこと
千種 有功
1797(寛政 9)
1854
◇江戸末期の歌人・公卿。本姓は源、号は千千廼舎(チヂノヤ)。
堂上家に生まれ、正三位左近衛権中将。香川景樹らと交わり、
二条派を脱した歌風を詠む。
歌集は『千千廼舎集』・『日枝の百枝』・『ふるかがみ』な
ど。
(*)1854(嘉永 7,安政元)。
◎東京都新宿区須賀町の須賀神社に三十六歌仙の書がある。
ちぐさ ありこと
千種 有功
⇒ちくさ ありこと(千種 有功)
ちくさ ただあき
千種 忠顕
生年不詳
1336
◇南北朝時代の武将・公家。
後醍醐天皇の側近で、1331(元弘元)元弘の変で幕府に捕えら
れ天皇とともに隠岐(オキ)に流される。1333(<南>元弘 3,<北>正
慶 2)隠岐脱出に尽力し、伯耆(ホウキ)船上山(センジョウセン)に挙兵。
赤松則村・足利尊氏らとともに六波羅を陥れ京都を回復。
建武政権では雑訴決断所の寄人(ヨリュウド)となる。尊氏離反の
ため1335(<南>建武 2,<北>建武 2)名和長年らとともに戦い尊
氏を西走させる。翌年、叡山に迫る足利直義軍と近江西坂本で
戦い敗死。
(*)1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。
ちぐさ ただあき
千種 忠顕
⇒ちくさ ただあき(千種 忠顕)
ちくやまどの
築山殿
生年不詳
1579(天正 7)
◇徳川家康の室。今川氏の一族関口義弘の娘、今川義元(ヨシモト)
の姪。
義元の養女となり、1557(弘治 3)義元の人質となっていた松
平元信(モトノブ)(徳川家康)に嫁ぐ。
織田信長の女婿となっていた徳川信康(ノブヤス)が、武田勝頼
に内通していた疑いで自害させられた際、連座して自害。
ちげつに
智月尼
⇒かわい ちげつ(川井 智月)
ちしん
智真
⇒いっぺん(一遍)
ちずか れいすい
遅塚 麗水
⇒ちづか れいすい(遅塚 麗水)
ちちぶのみや やすひと
秩父宮 雍仁
1902(明治35)
1953. 1. 4(昭和28)
◇昭和前期の皇族・軍人(少将)。名は淳宮(アツノミヤ)・雍仁(ヤスヒト)。
大正天皇の第2皇子、昭和天皇の弟。
1922(大正11)秩父宮号を受ける。オックスフォード大学に留
学。帰国して、1928(昭和 3)松平恒雄の長女勢津子と結婚。
1932(昭和 7)五・一五事件では皇道派に傾いたと噂される。
1940(昭和15)肺結核を発病し以後療養生活を送る。
◎スポーツ愛好家として知られる。
◎埼玉県秩父郡の霧藻ヶ峰(キリモガミネ)近くの岸壁に秩父宮レリー
フがある。
ちぢわ せいざえもん《ちぢは せいざゑもん》
千々石 清左衛門
⇒ちぢわ みげる(千々石 ミゲル)
ちぢわ みげる《ちぢは みげる》
千々石 ミゲル
1569(永禄12)ころ
1632(寛永 9)ころ
◇安土桃山時代の天正遣欧使節の一人。通称は清左衛門、洗礼
名はミゲル(Miguel)。千々石城主千々石直員の子、有馬晴信(ハ
ルノブ)の従弟、大村純忠(スミタダ)の甥。
1580(天正8)年受洗、ついで有馬セミナリヨに入学。
1582(天正10)大村純忠・有馬晴信の名代使節としてヴァリニャ
ーニ巡察使の帰国に従い、伊東マンショ(満所,祐益)・中浦ジュ
リアン(寿理安)・原マルチノ(丸知野)とともに長崎を出発、ゴ
ア・リスボン・マドリッド・フローレンスを経て、1583(天正
11. 2.)ローマに到着。ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。
1590(天正18)帰国。1591(天正19)豊臣秀吉と謁見。
1601(慶長 6)すでに棄教し、清左衛門と称していた。
(2)千々石直員(有馬晴純の子)の子。洗礼名ミゲル,敬称をつ
けてドン=ミゲルとされる(鈍弥解留 Don Miguel Cingiua)。
'90帰国し,翌'91豊臣秀吉に謁した。'92(文禄 1)イエズス
会修士となったが,その後は明確でない。
(4)「天正遣欧使節」の項:九○年帰国した。
(6)「天正遣欧使節」の項:90年帰国。
(16)名は直員.聖名はドン・ミカエル(鈍弥解瑠・Don Michael).
'91(天正19)年に帰った.帰国後豊臣秀吉に謁見し献上品を
送ったことは明らかであるが,その後棄教した.
◎2004(平成16)ミゲルのものと思われる墓石が長崎県西彼杵郡
(ニシソノギグン)多良見町(タラミチョウ)山川内郷(ヤマガワウチゴウ)(旧大村藩
領の伊木力村)で発見。
ちづか れいすい
遅塚 麗水
1868(慶応 2.12.27)
1942. 8.23(昭和17)
◇小説家・紀行文家・ジャーナリスト。本名は金太郎、別号は
松白
(9)誕生日は1866(慶応 2.12.27)、没日は 8.23。
(?)誕生日は1866(明治元.12.29)、没日は 8.22。
ちの しょうしょう
茅野 蕭々
1883. 3.18(明治16)
1946. 8.29(昭和21)
◇詩人・歌人・ドイツ文学者。本名は儀太郎、初号は暮雨。長
野県上諏訪生れ。茅野雅子の夫。
第一高等学校を経て、1908(明治41)東京帝国大学独文科卒業。
(5)誕生日は 3.18。
(11)誕生日は 3.15。
(13)明治一六年三月長野県上諏訪に生まれた。
ちの まさこ
茅野 雅子
1880. 5. 6(明治13)
1946. 9. 2(昭和21)
◇歌人。本名は「まさ」、旧姓は増田、号はしら梅。大阪道修町
生れ。
1904(明治37)上京。日本女子大学国文科卒業。
1907(明治40)茅野蕭々(ショウショウ)と結婚。
(5)没日は 9. 2。
(13)没日は 9. 3。
ちば かねたね
千葉 兼胤
1392(<南>元中 9,<北>明徳 3)
1430. 7. 7(永享 2. 6.17)
◇室町時代の武将。千葉介・下総守護。満胤の子、胤賢の父。
ちば かめお《ちば かめを》
千葉 亀雄(千葉 龜雄)
1878. 9.24(明治11)
1935.10. 4(昭和10)
◇評論家・ジャーナリスト。号は江東・莫愁・霹靂火。山形県
酒田町生まれ。
仙台第一中学校を経て、早稲田大学史学科・外語などをいず
れも中退。国民英学会卒業。
国民新聞・時事新報・読売新聞・大阪毎日新聞・東京日日各
新聞の記者を歴任。
文化学院・立教大学教授。
著書は『ペン縦横』・『現代世界文学概説』など。
ちば きくこう
千葉 掬香
1870(明治 3. 6.26)
1938.12.27(昭和13)
◇翻訳家。名は鉱蔵。
ちば さだたね
千葉 貞胤
1291(正応 4)
1351. 1.28(<南>正平 6,<北>観応 2. 1. 1)
◇鎌倉・南北朝時代の武将。千葉介・下総守護。胤宗の子、母
は15代執権北条貞顕の娘。
ちば さぶろべえ
千馬 三郎兵衛
⇒ちば みつただ(千馬 光忠)
ちば しゅうさく《ちば しうさく》
千葉 周作
1794(寛政 6)
1855(安政 2.12.10)
◇江戸幕末の剣客・北辰一刀流の祖。幼名は寅松、字は成政、
号は屠龍。陸前国仙台生れ。
父忠左衛門成胤から北辰無刀流を受け、浅利義信に浅利流を
学び、中西忠兵衛子正(タネマサ)に一刀流を学ぶ。
江戸に出て神田お玉ヶ池に道場玄武館を開く。
のち水戸藩の弘道館の撃剣師範をつとめる。
(2)生年は1794(寛政 6)。父から北辰夢想流の教えを受け、…
…。
(4)生年は1793。
(6)生年は1793。北辰無刀流の剣士千葉忠左衛門の子。
(16)生年は1793(寛政 5)。
(19)生年は1794。
(23)生年は寛政6(1794)。没日は安政2.12.13(1856.1.20)。
◎斎藤弥九郎・桃井春蔵(可堂)とともに幕末の三剣士。
ちば しょうぞう
千葉 省三
1892.12.12(明治25)
1975.10.13(昭和50)
◇児童文学作家。栃木県生れ。宇都宮中学校卒業。
ちば たねつな
千葉 胤綱
1208.11.14(承元 2.10. 5)
1228. 7. 1(安貞 2. 5.28)
◇鎌倉前期の御家人。成胤(ナリタネ)の子、泰胤・時胤・千田尼の
兄。
ちば たねひで
千葉 胤秀
1775(安永 4)
1849. 2.26(嘉永 2. 2. 4)
◇江戸後期の和算家。名は雄七、号は流峰。陸奥国一関藩士の
子。
ちば つねたね
千葉 常胤
1118
1201
◇平安末期〜鎌倉初期の武将・鎌倉幕府草創期の有力御家人。
平常重の子。
下総(シモウサ)国千葉を本拠とし、下総権介(ゴンノスケ)に任じられ
る。
1180(治承 4)源頼朝(ヨリトモ)が挙兵すると一族を率いて参加、
平氏討滅に尽力。頼朝の信頼を得て、下総守護となる。
(*)1118(永久 6,元永元)、1201(正治 3,建仁元)。
ちば はるお
千葉 春雄
1890(明治23)
1943(昭和18)
◇大正・昭和前期の国語・作文の指導者。
子ども向け作文雑誌「綴方倶楽部」を創刊。
ちば ひろつね
千葉 広常
生年不詳
1183(寿永 2)
◇平安末期の武将。平広常(タイラノヒロツネ)、通称は介八郎・上総国
権介(ゴンノスケ)。上総介千葉常澄の子。平忠常(タダツネ)の子孫。
保元・平治の乱に源義朝(ヨシトモ)に従い参戦。
1180(治承 4)源頼朝(ヨリトモ)の挙兵には下総の千葉常胤が参陣
したのを見て帰服し、富士川の戦で平維盛(タダモリ)軍を破る。
さらに同年11月常陸の佐竹秀義(ヒデヨシ)を金砂城に破る。
関東平定後、頼朝は広常の勢力を警戒する。三浦義澄が頼朝
を饗応したとき、頼朝に広常が下馬の礼をとらなかったため、
1183(寿永 2)謀反の疑いで梶原景時に誅殺される。
のち上総一ノ宮に捧げた願文により疑いが晴れ、投獄中の弟
天羽庄司直胤・相馬九郎常清らは助命される。
(2)天羽荘司直胤・……。
(16)天羽庄司直胤と…….
ちば まつべえ
千葉 松兵衛
1864
1926(大正15)
◇明治・大正期の実業家。
家業のタバコ商を継ぎ、1883(明治16)千葉商会を設立。「白
牡丹」・「菊世界」などを販売。1904. 7.(明治37)葉煙草専売法
の公布後は高等演芸場取締役・池貝鉄工所監査役などに就任。
(*)1864(文久 4,元治元)。
ちば みつただ
千馬 光忠
1653(承応 2)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、馬廻、禄高30石。通称は三
郎兵衛(サブロベエ)、戒名は刃道互剣信士。吉良家を探索中の変
名は原三郎(サブロウ)。永井日向守(ヒュウガノカミ)に仕える千馬求之
助(キュウノスケ)の次男で、赤穂浅野家の同族千馬家の養子になる。
光忠は資質剛直で、ある事で主君浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナ
ガノリ)の不興をかい、閉門に処せられ禄高100石から30石に減封
される。その後も長矩と折り合いが悪く、禄を辞して赤穂を去
ろうとしていた時、長矩の刃傷(ニンジョウ)事件が起きて留まる。
吉良家討ち入りでは裏門隊。伊予国松山藩主松平隠岐守(オキノ
カミ)の江戸屋敷に預けられ、翌年、波賀清太夫(ハガ・セイダユウ)の
介錯(カイシャク)で切腹。
ちば やいちろう
千葉 弥一郎
1848
1935(昭和10)
◇江戸幕末の新徴組隊員。
(*)1848(弘化 5,嘉永元)。
ちば ゆうごろう
千葉 勇五郎
1870(明治 3)
1946(昭和21)
◇明治〜昭和前半の牧師。
1932〜1937(昭和 7〜昭和12)関東学院院長。
ちゃちゃ
茶茶
⇒淀君(よどぎみ)
ちゅうきょう てんのう《ちゆうきよう てんわう》
仲恭 天皇
1218(建保 6.10.10)
1234(天福 2. 5.20)
◇第85代天皇。名は懐成(カネナリ)、世に九条廃帝・半帝・後廃帝
と呼ばれる。順徳天皇の第4皇子、母は東一条院(太政大臣九
条良経の娘立子)。
生後まもなく皇太子となる。
1221(承久 3. 4.)父順徳天皇が鎌倉幕府討幕のため上皇とな
り、4歳で天皇に即位。同年5月の承久の変で北条泰時(ヤストキ)
に廃位させられ、12. 1後堀河天皇が即位。
1870(明治 3)仲恭天皇と諡(オクリナ)される。
即位:1221(承久 3. 4.20)、退位:1221(承久 3. 7. 9)。
ちゅうそんじ ゆつこ
中尊寺 ゆつこ
1962. 5.28(昭和37)
2005. 1.31(平成17)
◇女性漫画家。本名は小林幸子(ユキコ)。東京生れ。
小学生のときから漫画を描き始め、漫画家谷岡ヤスジから
「天才漫画少女」と激賞される。
駒沢大学卒業。
1987(昭和62)漫画アクション新人賞とビジネスジャンプ新人
賞を受賞。
1989(平成元)『お嬢だん』を出版し、ベストセラーになる。
1990(平成 2)「オヤジギャル」、日本新語・流行語大賞銅賞を
受賞。
S状結腸ガンで死去。
ちゅうま かのえ
中馬 庚
1867(慶応 3)
1932(昭和 7)
◇明治後期の野球選手。
1890(明治23)東京の第一高等中学校で野球選手となる。在学
中、「ベースボール」を「野球」と訳し、1894(明治27)ベースボー
ル部を野球部と改称。
ちよ
千代
1703(元禄16)
1775(安永 4. 9. 8)
◇江戸中期の俳人。法号は千代尼・素園。
ちょう さんしゅう
長 三洲
1833(天保 4. 9.22)
1895. 3.13(明治28)
◇漢学者・書家。姓は長谷、名は(「廿」冠+「火」)(コウ)、字は
世章・秋史、通称は富太郎・光太郎、号は三洲。
ちょうけい てんのう《ちやうけい てんわう》
長慶 天皇
1343(<南>興国 4,<北>康永 2)
1394(応永元. 8. 1)
◇第98代天皇。名は寛成(ユタナリ)。後村上天皇の第1皇子、母は
嘉喜門院(坊門経忠の娘勝子)。
皇太弟の後亀山天皇に譲位。
即位について疑問視されていたが、史料により1936(昭和11)
詔書により歴代天皇に列する。
即位:1368(<南>正平23,<北>応安元. 3.11)以降、退位:1387
(<南>元中 4,<北>嘉慶元.11.27)。
(16)1926(昭和11):誤。
ちょうそかべ くにちか《ちやうそかべ くにちか》
長宗我部 国親
1502(文亀 2)
1560(永禄 3)
◇戦国時代の武将。初名は千王丸のち元家、通称は信濃守。兼
序の子、元親(モトチカ)の父。土佐国長岡郡岡豊城主。
ちょうそかべ もとちか《ちやうそかべ もとちか》
長宗我部 元親(長曾我部 元親,長曽我部 元親)
1539(天文 8)
1599(慶長 4. 4.19)
◇安土・桃山(戦国)時代の武将。幼名は弥三郎。国親(クニチカ)の
子、親貞の兄、盛親(モリチカ)の父。土佐国岡豊(オコウ)生れ。
1560(永禄 3)父の死により家督を継ぐ。国内の本山・吉良・
安芸氏ら諸豪族を倒し、1573年、土佐の西半を支配していた一
条兼定(カネサダ)を豊後に追放し、土佐一国を支配。1581(天正 9)
兼定の子一条内政を伊予法華津に追放、1582(天正10)阿波を併
合、1583(天正11)讃岐を平定、1584(天正12)伊予を攻略し、四
国を統一。
豊臣秀吉の四国征伐により、1585(天正13. 6.)羽柴秀長(ヒデ
ナガ)・羽柴秀次(ヒデツグ)6万が本拠地の阿波三好を、宇喜多秀
家(ウキタ・ヒデイエ)2万が讃岐を、毛利輝元(モウリ・テルモト)3万が伊予
を、三方から攻められ、降伏して土佐一国のみを安堵(アンド)さ
れる。
1586(天正14)秀吉の命を受けて大友宗麟(ソウリン)を援け島津義
久(ヨシヒサ)に敗れる。1592(文禄元)文禄・1597(慶長 2)慶長の役
に出兵し、軍功をたてる。
領内の長宗我部検地、掟書「長宗我部元親百ヶ条」が知られて
いる。
(2)生年は1539(天文 8)。
'74(天正 2)土佐国司一条兼定を豊後に追放し……。
'85四国全体を支配平定した。
(4)生年は1539。
(6)生年は1539。
73年土佐一国を平定,さらに84年四国を統一したが……。
(16)生年は1538(天文 7)。
'73(天正 1)年土佐の西半を勢力下に収めていた一条兼定を
豊後に退け……。
'84(天正12)年伊予を攻略して四国統一を達成した.
(*)1573(元亀 4,天正元)、1592(天正20,文禄元)。
ちょうそかべ もりちか
長宗我部 盛親
1575(天正 3)
1615(慶長20. 5.15)
◇安土桃山時代の武将。幼名は千熊丸、法名は大岩幽夢。元親
(モトチカ)の子。浦戸城主22万2千石。
1600(慶長 5. 9.)関ヶ原で豊臣方の西軍に属したため、所領
を没収され牢人生活を送る。
大坂の陣では大坂城へ入城し、1614(慶長19.11.)冬の陣、翌
年1615(慶長20. 5.)夏の陣と奮戦するが、捕われて処刑される。
ちょうわ《てうわ》
調和
1638(寛永15)
1715(正徳 5)
◇江戸前期の俳人。姓は岸本、一説に木村。陸奥岩代生れ。
ちょら
樗良
1729(享保14)
1780(安永 9.11.16)
◇江戸中期の俳人。姓は三浦、通称は勘兵衛、号は無為庵(ムイア
ン)。志摩国鳥羽(トバ)の人。芭蕉復帰を唱える。
ちり たかお
知里 高央
1907(明治40)
1965(昭和40)
◇昭和期の教育者。「たかなか」ともいう。北海道幌別(ホロベツ)
(現:登別市)生れ。小
樽高等商業学校(現:小樽商業大学)卒業。
北海道幌別のアイヌ酋長の家柄。知里高吉の長男、母はナミ
でユーカラの語り手金成マツの妹。知里幸恵(ユキエ)の弟、知里
真志保(マシホ)の兄。
ちり なみ
知里 ナミ
1879(明治12)
1964(昭和39)
◇大正・昭和期のアイヌ文化伝承者。旧姓は金成、アイヌ名は
ノカアンテ、洗礼名はサロメ。胆振・幌別の巨酋カンナリの子、
金成マツの妹。知里高吉の妻、知里幸恵(ユキエ)・知里高央(タカオ)
・知里真志保(マシホ)の母。
1902(明治35)知里高吉と結婚。1962(昭和37)紫綬褒章を受章。
ちり ましほ
知里 真志保
1909(明治42)
1961(昭和36)
◇昭和期の言語学者。北海道登別生れ。東京大学卒業。
1949(昭和24)北海道大学講師、1958(昭和33)教授。
北海道幌別のアイヌ酋長の家柄。知里高吉の次男、母はナミ
でユーカラの語り手金成マツの妹。知里幸恵(ユキエ)・知里高央
(タカオ)の弟。
ちり ゆきえ
知里 幸恵
1903(明治36)
1922(大正11)
◇大正時代のアイヌ文化伝承者。北海道幌別(ホロベツ)(現:登別
市)生れ。
北海道幌別のアイヌ酋長の家柄。知里高吉の長女、母はナミ
でユーカラの語り手金成マツの妹。知里高央(タカオ)・知里真志
保(マシホ)の姉。
旭川の祖母の家に預けられ、旭川区立女子職業学校卒業。
金田一京助の家に寄寓しているときに急死。
死後、1923(大正12)『アイヌ神謡集』出版。
(24)『アイヌ神謡集』(東京郷土研究社、一九二二年)一冊を残
して夭折。
ちんざん
椿山
⇒つばき ちんざん(椿 椿山)
ちんぜいはちろう ためとも《ちんぜいはちらう ためとも》
鎮西八郎 為朝
⇒みなもとのためとも(源 為朝)
ちんだ すてみ
珍田 捨巳
1856(安政 3)
1929(昭和 4)
◇明治・大正期の外交官。津軽藩士の子。
大隈重信の招きで1885(明治18)外務省に入る。1920(大正 9)
退官。1927(昭和 2)侍従長。
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