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人 名 辞 典 《あしさ》 編集:獨 澄旻
-------- あしさ ------------------------------------------------
あしだ えのすけ
芦田 恵之助
1873. 1. 8(明治 6)
1951.12. 9(昭和26)
◇国語教育・作文教育家。号は恵雨。兵庫県生れ。
東京高等師範学校付の小訓導。日本の植民地支配下の朝鮮・
南洋群島で国語教科書を編纂。退職後、地方教壇を行脚(アンギャ)。
あしだ ひとし
芦田 均
1887.11.15(明治20)
1959. 6.20(昭和34)
◇政治家。京都生れ。
1912年、東京大学法科卒業後、外務省に入る。1932(昭和 7)
衆議院議員に当選。ジャパン・タイムズ社長も兼ねる。
1947(昭和22)日本民主党総裁となり、片山内閣の副総理兼外
務大臣。
1948(昭和23)日本民主党・日本社会党・国民協同党の連立内
閣いわゆる中道内閣を組織、昭和電工疑獄事件に連座して首相
・党総裁とも辞任、政界を引退。
首相就任:1948. 3.10(昭和23)、退任:1948.10.15(昭和23)。
(*)1912(明治45,大正元)。
あしな もりうじ
蘆名 盛氏
1521
1580(天正 8. 6.17)
◇戦国時代の武将。通称は修理大夫、号は止々斎(シシサイ)。蘆名
盛舜(モリキヨ)の子。
1553(天文22)父の後を継ぎ会津黒川城主になる。畠山義継
(二本松)・田村清顕(田村)・二階堂盛義(須賀川)を降す。
伊達・佐竹義重(常陸)・田村・岩城氏と対抗し、上杉・武田
・北条氏と結び蘆名氏全盛を築く。
(*)1521(永正18,大永元)。
あしな もりしげ
蘆名 盛重
1576(天正 4)
1631(寛永 8. 6.)
◇安土桃山・江戸前期の武将。初名は義広。常陸太田城主佐竹
義重(ヨシシゲ)の子、結城義親(ユウキ・ヨシチカ)の養子。
1589(天正17)蘆名氏の血統の断絶に際し義親の推挙を受け、
蘆名氏を継ぎ盛重と改名。1589(天正17)内紛に乗じて[2]伊達
政宗(ダテ・マサムネ)に攻められ、会津黒川城で敗れ、兄佐竹義宣(ヨ
シノブ)を頼り常陸に逃れる。のち佐竹氏に従い秋田角館(カクノダテ)
に移り、1万6千石を領する。
(2)生年は1576(天正 4)。
(16)生年は1576(天正 5):誤。
あじま たてわき
安島 帯刀
1812(文化 9)
1859(安政 6. 8.27)
◇江戸幕末期の水戸藩士。名は信立、通称は弥次郎、号は峨興。
戸田忠之の次男で、母方の安島信順の養子。
1829(文政12)藩主継嗣問題で、藤田東湖(トウコ)・会沢安(ヤスシ)
・兄戸田忠敞らと協力して徳川斉昭(ナリアキ)を擁立。郡奉行・勘
定奉行・小姓頭と累進、藩政改革を推進する。
斉昭は外国船の日本沿岸への接近で海防の必要を感じ、大砲
の鋳造や兵制を改め鉄砲隊の編成などをする。斉昭の近臣結城
寅寿(ユウキ・トラカズ)の訴えにより幕府に警戒され、1844年、斉昭
が隠居謹慎を命ぜられた時、帯刀(タテワキ)も禁錮の処分を受け、
藩政は保守派がにぎる。1849(嘉永 2. 3.)幕府より許しが出る。
1853(嘉永 6)ペリーの浦賀来航によって幕府(老中阿部正弘)
は斉昭を海防のために起用し、藩政は再び帯刀ら改革派がにぎ
る。1858(安政 5)勅許のない通商条約調印について斉昭が大老
井伊直弼(イイ・ナオスケ)に反対し、安政の大獄で再び幕府に謹慎を
命ぜられた時、家老としてと国事に奔走画策する。
翌年、攘夷の勅諚(チョクジョウ)が水戸藩に下り、その暗躍の責
任者として切腹。
(*)1844(天保15,弘化元)。
あじま なおのぶ《あじま なほのぶ》
安島 直円
1739(元文 4)
1789(寛政元. 4. 5)
◇江戸中期の和算家。字は伯規、通称は万蔵、号は南山。出羽
国新庄藩の江戸詰の藩士の子で、江戸生れ。
はじめ中西流の入江応忠(十太夫)に学び、のち幕府天文方の
山路主住(ヌシズミ)について関流の皆伝を受ける。
(2)没年は1798(寛政10)。
(4)生年不詳、没年は1768。
(6)生年は1732ころ、没年は1798。
(16)没年は1789(寛政元. 4. 5)。
あしや がんのすけ
芦屋 雁之助
1931. 5.29(昭和 6)
2004. 4. 7(平成16)
◇喜劇役者。本名は西部清(ニシベ・キヨシ)。女優西部里菜の父、芦
屋小雁(コガン)・雁平の兄。京都市生れ。
朱雀中学校卒業。
13歳で旅回りの一座に加わる。
第二次世界大戦後、漫才の芦乃家雁玉・林田十郎に弟子入り
し、小雁と漫才コンビを組む。
1964〜1969(昭和39〜昭和44)喜劇座を主宰。
1980〜1996(昭和55〜平成 8)フジテレビ系『裸の大将放浪記』
シリーズに放浪の天才画家山下清(ヤマシタ・キヨシ)役で主演。
あしや どうまん《あしや だうまん》
蘆屋 道満
生年不詳
没年不詳
◇平安中期の陰陽家(オンヨウケ)。道摩とも。
一条天皇の頃、安倍晴明と法力を争い、藤原道長を呪詛し播
磨国(現:兵庫県)に放逐されたと伝えられる。
◎浄瑠璃『蘆屋道満大内鑑(オオウチカガミ)』などに脚色された。
あしや ろそん
蘆谷 蘆村
1886.11.14(明治19)
1946.10.15(昭和21)
◇童話研究家。本名は重常。
あじろ ひろのり
足代 弘訓
1784(天明 4.11.26)
1856(安政 3.11. 5)
◇江戸後期の国学者・歌人。幼名は慶二郎のち式部、通称は
権太夫、号は寛居(ユタイ)。家は代々伊勢外宮(ゲクウ)の権禰宜(ゴ
ンネギ)で足代弘早(ヒロトシ)の子。
本居大平(オオヒラ)・本居春庭に国学を、歌学を荒木田久老に学
ぶ。
天保飢饉には私財を投じて窮民を救う。大塩平八郎と親交が
あり、1837(天保 8)大塩平八郎の乱には大坂で取り調べを受け
る。
あすかい まさあき
飛鳥井 雅章
1611(慶長16)
1679(延宝 7.10.12)
◇江戸前期の公卿・歌人。初名は雅昭。飛鳥井雅庸の子。
あすかい まさあり《あすかゐ まさあり》
飛鳥井 雅有
1241(仁治 2)
1301(正安 3. 1.11)
◇鎌倉末期の歌人。飛鳥井家は蹴鞠(ケマリ)の名家で、父は教定
(ノリサダ)、母は北条実時(サネトキ)の娘、祖父は藤原雅経(マサツネ)。
1278(弘安元)公卿となり、参議・兵部卿・民部卿を経て正二
位に至る。後宇多・伏見・後伏見の3朝に仕える。
(4)飛鳥井 雅有(あすかい まさあり)。
(5)飛鳥井 雅有(あすかい まさあり)。
(11)飛鳥井 雅有(あすかい がゆう)。
あすかい まさちか《あすかゐ まさちか》
飛鳥井 雅親
1417(応永24)
1490(延徳 2.12.22)
◇室町中期の公卿・歌人・書家。法名は永雅、号は柏木。飛鳥
井雅世(マサヨ)の子。書道飛鳥井流の開祖。
足利義政の親任を受ける。
あすかい まさつね《あすかゐ まさつね》
飛鳥井 雅経
1170(嘉応 2)
1221(承久 3. 3.11)
◇鎌倉前期の歌人。藤原雅経とも呼ぶ。藤原(難波)頼経の子、
大江広元の女婿。飛鳥井家の祖。
歌道と蹴鞠で朝廷に仕える。『新古今和歌集』撰者の一人。
あすかい まさよ《あすかゐ まさよ》
飛鳥井 雅世
1390
1452(享徳元. 2. 1)
◇室町中期の公卿・歌人。初名は雅氏、法名は祐雅。飛鳥井雅
縁(マサヨリ)の子。蹴鞠の名人。
(*)1390(<南>元中 7,<北>康応 2,<北>明徳元)。
あすかだ れいむこう
飛鳥田 (「女」偏+「麗」)無公
1896. 5.10(明治29)
1933. 9.22(昭和 8)
◇俳人。本名は忠作。神奈川県生れ。
あすかべのつねのり
飛鳥部 常則
生年不詳
没年不詳
◇平安中期の村上天皇の宮廷の絵師。
『源氏物語』にも名前が残っている。
あすけ そいち
足助 素一
1878. 1. 1(明治11)
1930.10.29(昭和 5)
◇叢文閣の創業者。
あずま けんじ《あづま けんぢ》
東 けんじ
1923.12.17(大正12)
1999. 1. 7(平成11)
◇漫才師(ぼけ役)。本名は大谷健二(オオタニ・ケンジ)。
1961(昭和36)漫才コンビの宮城けんじ(つっこみ役)と「Wけ
んじ」を結成。
あずま たつぞう《あづま たつざう》
東 辰三
1900. 7. 3(明治33)
1950. 9.27(昭和25)
◇作詞家・作曲家。東京生れ。
1947(昭和22)『港が見える丘』作詞・作曲。
1948(昭和23)『君待てども』作詞・作曲。
あずみ せいえつ
安住 誠悦
1912. 7. 4(明治45)
1968. 1.31(昭和43)
◇近代文学研究者。
あすわ もりあき
足羽 敬明
1672(寛文12. 1.25)
1759(宝暦 9. 2.10)
◇江戸中期の国学者。越前福井足羽神社の社司。幼名は右京、
号は雉山人。福井藩士渥美友信の子、足羽社司馬来田治郎の養
子。
あぜがみ けんぞう
畔上 賢造
1884.10.28(明治17)
1938. 6.25(昭和13)
◇宗教家(キリスト教)。
あそ これずみ
阿蘇 惟澄
生年不詳
1364(<南>正平19,<北>貞治 3)
◇南北朝時代の武将。名は宇治・恵良。惟景または惟国の子、
惟武・惟村の父。惟時(コレトキ)の婿。南朝方として活躍。
1361年ころ肥後国一宮の阿蘇大宮司となる。
(*)1361(<南>正平16,<北>延文 6,<北>康安元)。
あそ これたけ
阿蘇 惟武
生年不詳
1377(<南>天授 3,<北>永和 3)
◇南北朝時代の武将。名は宇治、通称は八郎次郎。惟澄(コレズミ)
の子、惟政(コレマサ)の父、惟村(コレムラ)の弟。南朝方に属する。
1364(<南>正平19,<北>貞治 3)父の遺跡相続を認められ、
1365(<南>正平20,<北>貞治 4)肥後国一宮の阿蘇大宮司となる。
北朝に属した兄惟村と対立。
あそ これとき
阿蘇 惟時
生年不詳
1353(<南>正平 8,<北>文和 2)
◇南北朝時代の武将。名は宇治。惟景または惟国の子、惟村(コ
レムラ)・惟成の父、惟直(コレナオ)の養父、惟澄(コレズミ)の舅。肥後
国一宮の阿蘇大宮司。
はじめ南朝方に属し1335(<南>建武 2,<北>建武 2)新田義貞
に従い箱根竹ノ下で足利尊氏と戦う。1343(<南>興国 4,<北>康
永 2)足利直義(タダヨシ)に誘われ北朝方に転じる。1349(<南>正
平 4,<北>貞和 5)婿の惟澄に説得されて南朝方に復帰する。
1351(<南>正平 6,<北>観応 2)大宮司職を惟村(コレムラ)に譲り、
隠退。
(2)一族の惟澄とは違って南北何れの権力にも加わらず中立を
保った。
(*)記事は主に(16)に由る。
あそ これなお
阿蘇 惟直
生年不詳
1336
◇南北朝時代の武将。惟時(コレトキ)の子、惟成の兄。肥後国一宮
の阿蘇大宮司。
1336年、九州に下った足利尊氏と越前国多々良浜で戦い、敗
れて弟忠成とともに自刃。
(*)1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。
あそ これまさ
阿蘇 惟政
生年不詳
没年不詳
◇南北朝時代の武将。惟武(コレタケ)の子。肥後国一宮の阿蘇大宮
司。南朝方に属する。
1385(<南>元中 2,<北>至徳 2)父の跡を継ぐ。1393(<南>元中
10,<北>明徳 4)九州探題・肥後守護職今川了俊の支配下に入る。
あそ これむら
阿蘇 惟村
生年不詳
1406(応永13)
◇南北朝時代の武将。惟澄(コレズミ)の長子、惟郷の父、惟武(コレ
タケ)の兄、伯父惟時(コレトキ)の養子。肥後国一宮の阿蘇大宮司。
1351(<南>正平 6,<北>観応 2)義父惟時から大宮司職を継ぐ。
1362年、将軍足利義詮から肥後の守護職に任ぜられる。1367
(<南>正平22,<北>貞治 6)義詮から大宮司職に任ぜられる。
(*)1362(<南>正平17,<北>康安 2,<北>貞治元)。
あそ ひろし
阿蘇 弘
生年不詳
没年不詳
◇小説家。
あそう けいじろう《あさふ けいじらう》
麻生 慶次郎
1875(明治 8)
1953(昭和28)
◇農芸化学者。東京生れ。
東京大学教授。
あそう ひさし《あさふ ひさし》
麻生 久
1891. 5.24(明治24)
1940. 9. 7(昭和15)
◇社会運動家・政治家・小説家。大分県生れ。東京大学法科卒
業。
赤松克麿(カツマロ)の新人会結成に参加。1919(大正 8)友愛会に
入り、1920(大正 9)全日本鉱夫組合総連合を組織。足尾銅山な
ど多くの鉱山争議を指導。1926年、日本労農党を結成。全国大
衆党・社会大衆党の書記長。1936(昭和11)・1937(昭和12)東京
より衆院議員に当選。
しだいに軍部との結合を強め、1939(昭和14)東方会との合同
を策し新体制準備委員となるが、急死。
(*)1926(大正15,昭和元)。
あそう ゆたか
麻生 豊
1898. 8. 9(明治31)
1961. 9.12(昭和36)
◇漫画家。大分県生れ。
1923(大正12)報知新聞の漫画記者。のち読売新聞で活躍。
1933(昭和 8)朝日新聞の専属。
「ノンキな父さん」は連続漫画の先駆となる。
(6)没年は1960。
あそう よしてる
麻生 義輝
1901. 7.10(明治34)
1938.10.11(昭和13)
◇美学・哲学史研究家。筆名は麻生義。
あだち かげもり
安達 景盛
生年不詳
1248(宝治 2. 5.18)
◇鎌倉前期の武将。名は弥九郎・九郎、通称は高野入道、法名
は大蓮房覚智。安達藤九郎盛長(モリナガ)の長子、義景(ヨシカゲ)の
父。
第2代将軍源頼家(ヨリイエ)と第3代将軍実朝(サネトモ)に仕える。
1218(建保 6)出羽介となり秋田城介(アキタジョウノスケ)と呼ばれる。
実朝暗殺を悲しみ、出家し高野山に入る。その後も幕政に参与
し、承久の乱にも参軍。
娘松下禅尼(マツシタゼンニ)を北条時氏に嫁し、経時・時頼(トキヨリ)
・為時・時定らを生む。執権時頼の時に外戚として権勢をふる
う。1247(宝治元)時頼・義景とはかり三浦泰村一族を誘発し滅
ぼし(宝治合戦)、安達氏の隆盛をもたらす。
あだち きんいち
足立 欽一
1893. 7.10(明治26)
1953.12.29(昭和28)
◇劇作家・書肆(ショシ)聚芳閣の社主。
あだち ぎんこう
安達 吟光
生年不詳
没年不詳
◇明治の浮世絵師。俗称は平七、初号は松雪斎銀光、別号は
真匠吟光・松斎吟光・銀光。明治一〇年代より三〇年代に活躍。
役者似顔絵・美人風俗画・名所絵や時事を扱った世相画・戦争
画、挿絵など。
あだち けんいち
足立 巻一
1913. 6.29(大正 2)
1985. 8.14(昭和60)
◇詩人・小説家・評論家。東京生れ。神宮皇学館国漢科卒業。
あだち げんいちろう
足立 源一郎
1889. 7. 8(明治22)
1973. 3.31(昭和48)
◇画家。写実的な山岳風景画。
あだち けんぞう《あだち けんざう》
安達 謙蔵
1864
1948(昭和23)
◇明治〜昭和期の政治家。肥後国熊本藩生れ。熊本済々黌卒業。
日清戦争に「九州日日新聞」の記者として従軍。ついで「朝鮮
時報」・「漢城新報(のち京城日報)」を発刊。
1895(明治28)在韓国日本公使三浦梧楼(ゴロウ)(陸軍中将)の指
揮で岡本柳之助(陸軍大尉)らと、閔妃(ビンキ)(朝鮮李朝の親露
派)暗殺事件に連座。
免訴後、佐々友房(サッサ・トモフサ)と熊本国憲党を組織。1902(明
治35)以来、衆院議員14回当選。加藤高明内閣の逓相、第1次
若槻内閣で留任、一時内相臨時代理を兼任、浜口内閣で内相に
就任。第2次若槻内閣で留任、挙国一致内閣を構想し、内閣の
反対を受け辞任し内閣を総辞職させる。1932(昭和 7)国民同盟
を結成し、委員長となる。1940(昭和15)国民同盟を解散。
立憲同志会・憲政会・民政党の領袖(リョウシュウ)として「選挙の
神様」・「蝮(マムシ)の謙蔵」といわれる。
(2)閔妃(ビンヒ)事件に連座。熊本国憲党を起こす。
(4)閔妃(ビンキ)事件に連座。
(6)閔妃(ビンピ)殺害事件に連座。熊本国権党の重鎮となり,…
…。
(16)閔妃(朝鮮…<中略>…人物)暗殺事件に連座.熊本国権党を
組織,……。
(*)1864(文久 4,元治元)
あだち しげのぶ
足立 重信
1560(永禄 3)頃
1625(寛永 2)
◇江戸前期の武将。通称は半助のち半右衛門。美濃の人。
若いころから加藤嘉明(ヨシアキ)に従って戦い、文禄・慶長の2
度の朝鮮出兵や関ヶ原の戦いに従軍し、その功により伊予松山
藩の家老職(食封5千石)を受ける。
伊予川の堤防を築き5千余町の新田を開発、これにより重信
川と改称される。松前(マサキ)城を拡張し石手川を改修する。ま
た、勝山移転の際は普請奉行となり、1603(慶長 8)松山城を築
き、城下に町家を集め松山と改称する。
(2)石手川の改修に力をいれ,……。
(6)石手川改修を行う。
(16)石出川の流域を変更するなど,……。
あだち しんとう
足立 信頭
1769(明和 6)
1845(弘化 2. 7. 1)
◇江戸後期の天文学者。字は子季、通称は左内、号は渓隣。大
坂の人。医者北谷琳筑の子、大坂鉄砲方の足立正長に養子。
和算を宅間流松岡能一に、暦学を麻田剛立(ゴウリュウ)に学ぶ。
1813(文化10)松前藩に出張し、来航したロシア人よりロシア語
を学び、通詞の役を果たす。1835(天保 6)幕府より天文方を拝
命。1841(天保12)改暦の命を奉じて渋川景佑(カゲスケ)らととも
に、1842(天保13)天保壬寅暦を作成、1873(明治 6)太陽暦採用
まで用いられる。
著書『魯西亜語辞書』。
(16)信顕ともいわれている。
あだち ちょうしゅん
足立 長雋
1775(安永 4)
1836(天保 7.12.26)
◇江戸後期の蘭医。本名は井上世茂、号は無涯。江戸生れ。井
上正広の子。
足立梅庵に漢医方を学び、のち養嗣子となり、さらに多紀桂
山に学ぶ。蘭医方を吉田長淑に学び、篠山藩の侍医となる。
西洋産科医の先駆。
あだち ほくおう
足立 北鴎(鴎:「區」偏+「鳥」)
1869(明治 2)
1945(昭和20)
◇新聞人。本名は荒人。「読売新聞」の主筆。
あだち もりなが
安達 盛長
1135
1200(正治 2. 4.26)
◇鎌倉初期の武将。通称は藤九郎、法名は蓮西。小田野三郎兼
広(藤原北家魚名流)の子、安達景盛(カゲモリ)の父。妻は源頼朝
(ヨリトモ)の乳母比企尼の娘丹後内侍。
源頼朝の挙兵以来、これを援け関東武士の糾合に活躍。石橋
山の敗戦後、頼朝とともに安房に逃れる。頼朝の死後出家。
第2代将軍頼家(ヨリイエ)の時、老臣として幕政に参画。
(*)1135(長承 4,保延元)。
あだち やすもり
安達 泰盛
1231(寛喜 3)
1285(弘安 8.11.17)
◇鎌倉中期の武将。通称は九郎、法号は覚真。義景(ヨシカゲ)の
第3子、景盛(カゲモリ)の孫、宗景(ムネカゲ)の父。
父の跡を継いで引付衆・秋田城介・幕府評定衆、1282(弘安
5)陸奥守になるが宗景に譲り、同年出家。
娘が北条時宗(トキムネ)に嫁ぎ、貞時(サダトキ)を生む。
貞時が第9代執権(シッケン)になると、北条氏の内管領平頼綱(ヨ
リツナ)が幕政を牛耳り、1285(弘安 8)宗景に謀反の企てあり、と
頼綱に讒言(ザンゲン)された貞時に攻められ、一族が滅亡(霜月
騒動,秋田城介の乱)。
あだち よしかげ
安達 義景
1210(承元 4)
1253(建長 5. 6. 3)
◇鎌倉中期の武将。初名は城太郎、法号は願智。景盛(カゲモリ)
の長男、母は武藤頼佐の娘。泰盛(ヤスモリ)の父。
父の跡を継いで秋田城介となり、評定衆・引付頭人などを歴
任。1242(仁治 3)北条泰時の命を受けて、後嵯峨天皇擁立に奔
走する。1247(宝治元)、三浦泰村(ヤスムラ)と勢力を争い、父や執
権北条時頼と共謀して泰村を滅ぼし(宝治合戦)、安達氏の隆盛
をもたらす。のち剃髪し、まもなく病死。
あだち よしゆき
安達 喜幸
1827(文政10)
1884(明治17)
◇明治期の建築技師。北海道開拓使営繕課筆頭技師。
北海道開拓使の鹿鳴館ともいうべき豊平館を設計。
あだむ らっくすまん
アダム・ラックスマン
⇒らっくすまん(ラックスマン)
あだむす
アダムス
1564(永禄 7)
1620(元和 6. 5.16)
◇江戸前期、日本に来た最初のイギリス人・航海士。名はウィ
リアム・アダムス(William Adams)、日本名は三浦按針(アンジン)。
イギリスのケント州ギリンガム生れ。
12歳の時、ライムハウスの造船所に入る。のちバーバリ会社
に雇われ12年間、地中海付近を航海。1598(慶長 3)オランダ東
インド会社に雇われ、東洋に艦隊を派遣する水先案内人となり、
マラッカ諸島に向って航海中、難船。
乗船リーフデ号は1600(慶長 5)豊後に漂着。部下のオランダ
人ヤン・ヨーステンとともに大坂・江戸で徳川家康と謁見。命
を受けて2隻の西洋帆船を建造。相摸国三浦郡逸見(ヘンミ)村250
石と、江戸日本橋に邸を与えられ、ヨーステンとともに外交顧
問となる。三浦按針と呼ばれ、姓は所領地に、名は当時水先案
内を按針と呼び、それに因む。
彼はバンダム(インドネシア)のイギリス商館に日本貿易有望
の書を送り、セリースがバンダムに在った艦隊を率い、1613
(慶長18)平戸に入港、駿府で家康に、江戸で将軍秀忠に謁見し、
英国王ジェームス1世の国書を呈し、貿易の許可を得る。平戸
に商館を設け、コックスを館長とし、帰国。
アダムスは帰国を希望しながらもセーリス一行とは相容れず
日本に留まり、商館員となる。鎖国令の中、貿易はオランダの
みとなり、不遇のうちに平戸で病死。
あつた ごろう《あつた ごらう》
熱田 五郎
1912.11.14(大正元)
1960.11.20(昭和35)
◇小説家。本名は渋谷天珍児(テツジ)。
あつのみや やすひと
淳宮 雍仁
⇒ちちぶのみや やすひと(秩父宮 雍仁)
あつみ しんのう《あつみ しんわう》
敦実 親王
893(寛平 5)
967(康保 4)
◇宇多(ウダ)天皇の第8皇子・宇多源氏の祖。名は六条宮・
八条宮、また出家して法名は覚真、また仁和寺宮と称される。
敦仁(アツギミ)皇子(第60代醍醐天皇)の弟(同母)、母は藤原高藤
の娘胤子(インシ)。
和琴(ワゴン)・琵琶(ビワ)の名手で源家音曲の祖といわれ、鷹
・馬・蹴鞠・和歌にも秀でる。
あつみ せいたろう
渥美 清太郎
1892. 9. 9(明治25)
1959. 8.20(昭和34)
◇演劇・舞踊評論家。
(8)誕生日は 9. 9。
(?)誕生日は12.15。
あてるい
阿弖流為(アテルイ)
生年不詳
802(延暦21. 8.)
◇奈良末期・平安前期の蝦夷(エミシ)の族長。
774(宝亀 5)奥州胆沢(イサワ)を中心として征討軍に対抗。
789(延暦 8)朝廷軍を撃退。
801(延暦20)坂上田村麻呂が討伐、 802(延暦21. 1.)胆沢城
が造営され、磐具公母礼(母禮)(イワグモノキミ・モレ)ら500人とともに
投降。
河内国杜山(モリヤマ)で斬刑。
◎2005. 9.17(平成17)岩手県水沢市の出羽神社で阿弖流為母禮
慰霊碑を除幕。
あとう はっかい
阿藤 伯海
1894. 2.10(明治27)
1965. 4. 4(昭和40)
◇漢詩人。名は簡、字は伯海、号は大簡・虚白堂。
あとべ よしあきら
跡部 良顕
1658(明暦 4. 2.12)
1729(享保14. 1.27)
◇江戸中期の神道家(垂加)。姓は源、名は良賢のち良顕、通称
は宮内、号は重舒斎。霊社号は光海(テルミ)。
あとみ かけい《あとみ くわけい》
跡見 花蹊
1840(天保11)
1926
◇跡見女学校の創立者・女流教育家。本名は滝野。父は歌人重
敬。摂津の人。
大阪・京都の私塾で教えた後、東京に出て1875(明治 8)跡見
女学校を創立、寄宿制度を採用。
(*)1926(大正15,昭和元)。
あなみ これちか
阿南 惟幾
1887(明治20)
1945. 8.15(昭和20)
◇陸軍大将。大分県出身。
1918(大正 7)陸軍大学校卒業。1929(昭和 4)侍従武官・陸軍
省人事局長を歴任。1939.10.(昭和14)陸軍次官。
第二次大戦中、各地野戦軍司令官。1945. 4.(昭和20)鈴木貫
太郎内閣の陸軍大臣。ポツダム宣言受諾にあたり条件付き受諾
を主張。
終戦の日、陸相官邸で割腹自殺。
あねざき ちょうふう
姉崎 嘲風
1873. 7.25(明治 6)
1949. 7.23(昭和24)
◇宗教学者(切支丹,仏教)・評論家。本名は正治(マサハル)。京都
生れ。
1896(明治29)東京大学哲学科卒業。1900(明治33)ドイツ・イ
ギリス・インドに留学、1903(明治36)帰国。1905(明治38)東京
大学に宗教学講座を開設。
(2)姉崎 正治(あねざき まさはる)。
(4)姉崎 正治(あねさき まさはる)。
(5)姉崎 嘲風(あねざき ちょうふう)。
(6)姉崎 正治(あねさき まさはる)。
(13)姉崎 嘲風(あねざき ちょうふう,あねざき とうふう)。
あねざき まさはる
姉崎 正治
⇒あねざき ちょうふう(姉崎 嘲風)
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