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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6007.03

                 人   名   辞   典    《あし》     編集:獨  澄旻

-------- あし --------------------------------------------------
あし とうざん
	蘆 東山
	1696(元禄 9.11.23)
	1776(安永 5. 6. 2)
	◇江戸中期の儒学者(朱子学派)。名は徳林、字は世輔、通称は
	幸七郎、号は東山・玩易斎。陸奥国磐井郡東山の人。
あしかが いえとき
	足利 家時
	生年不詳
	1289(正応 2)頃
	◇鎌倉時代の武将。名は太郎、通称は式部大夫。頼氏の子、母
	は上杉重房の娘、貞氏の父、尊氏(タカウジ)の祖父。
	 足利氏に伝えられていた源義家の「我が七代の孫に吾れ生れ
	替りて天下を取るべし」という置文があり、家時はその七代目
	にあたる。しかし北条氏の打倒は実現できそうになく、「我が
	命をつづめ三代の中にも天下をとらしめ給へ」と八幡宮に願文
	を捧げて切腹する。(今川了俊「難太平記」)
	(2)生年は不詳、没年は1289(正応 2)?。
	 「足利貞氏」の項。足利家時の子,母は北条時茂の娘,尊氏・
	直義の父。
	(16)生年は1283(弘安 6)、没年は1317(文保元)。足利氏に慣例
	の北条氏との婚姻を絶ち,新田朝氏の烏帽子親になるなどして
	一族の強化を計ったが,……。
	(*)1317(正和 6,文保元)。
あしかが うじみつ《あしかが うぢみつ》
	足利 氏満
	1359(<南>正平14,<北>延文 4)
	1398(応永 5.11. 4)
	◇南北朝時代の武将。幼名は金王丸、通称は第2代鎌倉公方
	(関東管領)、法号は永安寺殿璧山道全。基氏(モトウジ)の長男、
	満兼(ミツカネ)の父。
	 九歳で父が死に、第2代の関東管領となり、上杉憲顕(ノリアキ)
	の補佐を受ける。1368年、憲顕とその子憲春(ノリハル)に武蔵国平
	一揆を平定させ、同年能憲(ヨシノリ)・憲春兄弟に新田義宗・義治
	らを信濃・上野に討たせる。1369(<南>正平24,<北>応安 2)元
	服、将軍義満の偏諱(ヘンキ)を受けて氏満と改名。1378(<南>天授
	 4,<北>永和 4)管領細川頼之排斥の騒動(義満の失政)に乗じて、
	義満に代り将軍になろうとし、憲春の諌死により思い止まる。
	そのため義満の嫌疑を受けるが、禅僧義堂周信(ギドウ・シュウシン)
	らの斡旋で事なきを得る。1380(<南>天授 6,<北>康暦 2)小山
	義政らの叛乱を鎮圧。1391(<南>元中 8,<北>明徳 2)明徳の乱
	後、義満から陸奥・出羽の管領を受ける。
	 義堂周信に帰依し、政治の要諦を聞き、海蔵寺を建立。
	◆墓は鎌倉の瑞泉寺。
	(*)1368(<南>正平23,<北>貞治 7,<北>応安元)。
あしかが さだうじ
	足利 貞氏
	1273(文永10)
	1331(元弘元. 9. 5)
	◇鎌倉後期の武将。名は三郎、法号は義観。足利家時の子、母
	は北条時茂の娘。妻は上杉頼重の娘清子(キヨコ)、尊氏(タカウジ)・
	直義(タダヨシ)の父。
	 1311(応長元.10.)北条貞時の死に殉じて出家する。
あしかが しげうじ《あしかが しげうぢ》
	足利 成氏
	1434(永享 6)
	1497(明応 6. 9.30)
	◇室町中期の武将。名は永寿王、通称は古河公方(コガクボウ)、
	法号は乾享院殿久山道昌。持氏の第4子、安王丸・春王丸の弟。
	 1439(永享11)永享の乱で父持氏が敗れの自刃後、僧昌在に保
	護されて信濃の大井持光を頼る。翌1440(永享12)安王・春王の
	叛に遺臣らと加わり結城氏朝(ユウキ・ウジトモ)の下総国結城城で挙
	兵(結城合戦)。1441(嘉吉元. 4.)落城し、捕われた兄二人は殺
	されるが、永寿王は京都に送られ土岐(トキ)持頼に預けられる。
	 1449年許されて元服し成氏と改名、鎌倉公方(関東管領)にな
	る。1454(享徳 3)上杉憲実の子憲忠を殺したため、再び関東が
	内乱となり、上杉一族および幕府軍と戦う。1457年、鎌倉を去
	り下総国古河に移り、幕府から成氏討伐を命じられた伊豆の堀
	越公方(将軍義政の弟政知)と対立。1478(文明10)上杉顕定と、
	1482(文明14)幕府と和睦。
	(*)1449(文安 6,宝徳元)、1457(康正 3,長禄元)。
あしかが たかうじ《あしかが たかうぢ》
	足利 尊氏
	1305(嘉元 3)
	1358(<南>正平13,<北>延文 3. 4.30)
	◇室町幕府の初代将軍。初名は高氏・又太郎高氏、戒名は等持
	院仁山妙義・長寿院。清和源氏足利流の惣領。足利貞氏の二男、
	母は上杉頼重の娘清子(キヨコ)で、足利義直(タダヨシ)の同母兄。
	 1331年、家督を継ぐ。元弘の変で鎌倉幕府の命を受けて大仏
	貞直とともに上洛し後醍醐天皇軍を討つ。乱平定ののち鎌倉に
	帰る。しかし源氏復興の野心を抱いていた高氏は、1333(<南>
	元弘 3,<北>正慶 2)密使を伯耆の後醍醐天皇に送り、4月丹波
	篠村で幕府に叛旗を翻し、5月赤松則村・千種忠顕らと京都を
	攻撃し六波羅探題を陥れる。
	 建武中興の功臣となって後醍醐天皇(諱:尊治<タカハル>)より「尊
	氏」を賜り、武蔵・常陸・下総の守護職と北条氏の所領を与え
	られ、正三位参議となる。しかし、征夷大将軍に任命されなかっ
	た不満から建武政権に協力せず、護良親王(モリナガ・シンノウ)と対立
	する。1334(<南>建武元,<北>建武元.11.)天皇に親王の逮捕を
	強要し、親王の身柄を鎌倉に送り、弟足利直義のもとに幽閉す
	る。
	 1335(建武 2. 6.)北条時行が美濃で挙兵し鎌倉に侵入するや、
	直義を救援するため東下し、8月時行を鎌倉から追放する。11
	月新田義貞(ニッタ・ヨシサダ)討伐と称して兵を集め、建武政権にそ
	むいて箱根竹ノ下の戦で義貞に勝利し京都に上る。1336年、北
	畠顕家(アキイエ)・新田義貞の軍から兵庫に逃れ、楠木正成(クスノキ・
	マサシゲ)に敗れて九州に敗走。途中、光厳院(コウゴンイン)の院宣(イン
	ゼン)を受けて賊名を避ける。同年2月筑前国多々良浜で菊池武
	敏を破り太宰府に入り、人心を收攬(シュウラン)し勢力を盛り返し
	て兵20万・船師7千隻をもって東上し、5月兵庫湊川に楠木正
	成を敗死させ、新田義貞を破って6月再び京都に入る。後醍醐
	天皇は比叡山に逃れ、名和長年(ナワ・ナガトシ)ら天皇方の将士が戦
	死する。尊氏は賊名を避けるため豊仁(ユタヒト)親王を奉じて光明
	天皇(北朝)を擁立する。11月僧是円玄慧に命じて『建武式目』
	を定めさせ、幕府を開く。
	 1338(<南>延元 3,<北>建武 5. 8.11)征夷大将軍となる。
	1339(<南>延元 4,<北>暦応 2. 8.)後醍醐天皇が吉野で死去し、
	尊氏は天皇のため盛大な法要を営み、天竜寺を創建する。
	 1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)弟直義が尊氏の執権高師直(コウ
	ノモロナオ)と争うと、尊氏は師直を支持し、子の義詮(ヨシアキラ)を鎌
	倉から呼び寄せて直義の諸権限を与える。1350(<南>正平 5,
	<北>観応元.10.)直義は南朝に降り、師直討伐の軍を起し、翌
	1351(<南>正平 6,<北>観応 2. 2.)師直・師泰を殺害。ついに
	室町幕府は尊氏・義詮派と直義・直冬派とに分かれ抗争する(
	観応擾乱<ジョウラン>)。1352(<南>正平 7,<北>観応 3. 2.)尊氏は
	直義を鎌倉で毒殺する。
	 六年後、中国・九州に勢力を奮う直義の子直冬(タダフユ)(もと
	鎮西探題)を討つため九州への遠征を計画するが、果たさず病
	没。
	(*)1331(元徳 3,元弘元)、1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>
	建武 3)。
あしかが たかつね
	足利 高経
	1305(嘉元 3)
	1367(<南>正平22,<北>貞治 6. 7.)
	◇南北朝時代の武将。幼名は千鶴丸、通称は尾張孫三郎、法号
	は道朝、斯波(シバ)氏を称する。家貞(宗氏)の子、母は大江時
	秀の娘。右馬頭から従四位下修理大夫となり、尾張守を兼ねて
	越前守護となる。
	 足利尊氏(タカウジ)に従って戦い、1337(<南>延元 2,<北>建武
	 4)高師泰(コウノモロヤス)とともに越前国金崎城を攻めて新田義貞(ニッ
	タ・ヨシサダ)を敗走させる。
	 その後足利直義(タダヨシ)・直冬(タダフユ)に属して尊氏と戦い、
	1356年、尊氏に降る。
	 二代将軍義詮(ヨシアキラ)は、南朝に降った執事細川清氏に代っ
	て高経を登用。高経は幼い我が子義将を執事に推し、後見役と
	して実権を握る。諸国守護を圧迫、越前寺社領を半済(ハンゼイ)
	施行し家人に給するなどで諸将の反感をかい、興福寺は神木を
	担ぎ出して強訴し、義詮の寵臣佐々木高氏は北朝へ讒言して高
	経を排斥しようとした。
	 1366(<南>正平21,<北>貞治 5)高経は自邸を焼いて越前に戻
	り、杣山城を拠点にして幕府軍と対抗するが、病没し、子の義
	将・義種らは許されて上洛した。
	(2)生年は1305(嘉元 3)。
	(16)生年は1305(嘉元 1):誤。
	(*)1303(乾元 2,嘉元元)、1305(嘉元 3)、1356(<南>正平11,
	<北>文和 5,<北>延文元)
あしかが たかもと
	足利 高基
	1485(文明17)
	1535(天文 4. 6. 8)
	◇室町後期の武将。初名は高氏、第3代古河公方(コガクボウ)。
	足利政氏(マサウジ)の長子、晴氏(ハルウジ)の父。
	 山内・扇谷両上杉氏と結ぶ父政氏・弟義明と対立し、下総国
	関宿ついで下野国宇都宮にいたが、1509(永正 6)和解して古河
	に帰る。のち父を隠退させ、子晴氏に北条氏綱の娘(芳春院)を
	娶らせ、公方家の存続と勢力の回復を図る。
	(2)没年は1539(天文 8)、異説35。
	 「足利高基」の項。1520(永正17)父を隠退させ、……。
	 「足利政氏」の項。'19武蔵国久喜に隠棲し,その地で没した。
	(16)没年は1535(天文 4)。
あしかが ただつな
	足利 忠綱
	1164(長寛 2)
	没年不詳
	◇平安末期・鎌倉初期の武将。別名は田原又太郎。足利俊綱の
	子。百人力で、歯の長さが一寸、声は十里に響いたとして有名。
	 かつて父俊綱が讒言で没収された所領を、平重盛の計らいで
	忠綱に還付され、それ以後平氏に従う。しかし、1180(治承 4)
	以仁王(モチヒトオウ)の挙兵の際、宇治川の先陣の功を立てながら、
	一族の者の訴えで恩賞が受けられず、平氏を離れ源頼朝の挙兵
	に応じる。これにより上野六郡を安堵されたが、頼朝の重臣小
	山朝政との不和から、1183(寿永 2)志田先生義広の謀反に加担
	し、朝政に敗れて西海に逃れる。
	(2)平清盛から上野6郡の大介を与えられたが、一族の反対に
	より取り返されたという。
	(16)功を立てながら族人の訴えで恩賞が受けられなかったのを
	不満として平氏を離れ、頼朝の挙兵に応じて功をあげた.これ
	により上野6郡を安堵されたが、……。
あしかが ただふゆ
	足利 直冬
	1327(嘉暦 2)頃
	1400(応永 7)頃
	◇南北朝時代の武将。法名は道昭。尊氏(タカウジ)の庶長子、母
	は越前局、直義(タダヨシ)の養子。
	 母の身分が賎しいため尊氏は子とせず、幼少より東勝寺に入
	り喝食(カツシキ)となる。尊氏に紀伊討伐を命ぜられたが、養母の
	讒言から、僧円林に伴われて直義を頼り、偏諱して直冬と改名。
	1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)長門探題。高師直(コウノモロナオ)排斥
	で尊氏に叛いた直義を援けて、高師直に敗れ九州に走る。この
	ため、九州の諸豪族は幕府方(尊氏)・直冬方・宮方(南朝)に三
	分される。尊氏と直義が一時和した1349(<南>正平 4,<北>貞和
	 5)鎮西探題となり人心を収める。しかし尊氏が直義を暗殺す
	ると、九州から中国地方へ転進、一時南朝に帰順し、1355(<南>
	正平10,<北>文和 4)山名時氏らを率いて入京、尊氏・義詮(ヨシア
	キラ)父子を近江に追い払う。まもなく尊氏方に京都を奪回され、
	中国地方に逃れ、やがて義詮に降ったらしい。
	(2)やがて義詮に屈服したらしい。
	(16)のち将軍義蜜に降った.
あしかが ただよし
	足利 直義
	1306(嘉元 4. 2.26)
	1352(<南>正平 7	<北>観応 3. 2.26)
	◇南北朝時代の武将。幼名は高国、別名は錦小路殿、法名は
	慧源。足利貞氏の子、母は上杉頼重の娘清子(キヨコ)で、足利尊
	氏(タカウジ)と同母弟。直冬(タダフユ)の養父。
	 元弘の乱では兄尊氏と行動をともにする。建武中興で左馬頭
	兼相摸守となり、成良親王(ナリナガ・シンノウ)の執事として鎌倉に随
	行。1334年、鎌倉に流された護良親王(モリナガ・シンノウ)を二階堂千
	ヶ谷東光寺に幽閉。北条高時の子時行が鎌倉を攻めた際(中先
	代<ナカセンダイ>の乱)、淵辺義博を使わして親王を弑する。援軍の
	尊氏の軍とともに建武政権に叛き、新田義貞の軍を敗って京に
	上る。いったん敗れて九州に下り、勢力を盛り返して尊氏とと
	もに陸路東上し、再び入京。室町幕府開府に功があり、政務を
	任され、尊氏とともに両御所と称された。その後政治方針が鎌
	倉幕府の踏襲・公家神社勢力との妥協など保守的であったので、
	1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)尊氏の信任した執事高師直(コウノモ
	ロナオ)と対立し、同年末出家する。翌年京都に脱出し、南朝に通
	じて兵を集め尊氏と戦い、京都を占領。一時尊氏と和し、子直
	冬は鎮西探題に任じられる。1351(<南>正平 6,<北>観応 2)再
	び不和となり、北陸を経て鎌倉に下るが、翌年鎌倉で尊氏に毒
	殺される(観応の擾乱)。
	(*)1334(<南>元弘 4,<南>建武元,<北>正慶 3,<北>建武元)。
あしかが ちゃちゃまる
	足利 茶々丸
	生年不詳
	1491(延徳 3)
	◇室町後期の武将。第2代堀越公方。足利政知(マサトモ)の子。
	 父との不和から父は異母弟潤童子(ジャンドウシ)を後嗣とする。
	1491(延徳 3. 4.)父の死後、幼い弟潤童子とその母を殺し家督
	を奪うが、讒言を信じ老臣をも殺したため家臣は心服せず、伊
	豆国内が内紛となる。これに乗じて駿河の興国寺城主伊勢長氏
	(イセ・ナガウジ)(北条早雲<ホウジョウ・ソウウン>)に攻め込まれ、茶々丸は
	願成就院(会下寺)で自刃、堀越公方は滅びる。
あしかが はるうじ
	足利 晴氏
	生年不詳
	1560(永禄 3. 5.27)
	◇戦国時代の武将。幼名は亀王丸、第4代古河公方(コガクボウ)。
	足利高基(タカモト)の子、妻は北条氏綱の娘(芳春院)。[2]足利義
	氏(ヨシウジ)の父。
	 1538(天文 7)氏綱とともに小弓御所足利義明(叔父)・里見義
	堯(ヨシタカ)を下総国府台に破る。氏綱の没後その子氏康と対立、
	再び上杉氏と通じる。1545(天文14)上杉憲政(山内家)・上杉朝
	定(扇谷家)の誘いに応じ武蔵国河越城を囲み、1546. 4.20(天
	文15)氏康の援軍に囲いを破られる。1554(天文23)再び氏康を
	撃とうとして、逆に古河城を奪われ、相摸国波多野に幽閉され
	る。
	 1555年、氏康に擁立された義氏に家督を譲り、下総国関宿に
	隠退。
	(*)1555(天文24,弘治元)。
あしかが はるおう
	足利 春王
	1429
	1441(嘉吉元. 5.16)
	◇室町中期の武将。別称は春王丸。鎌倉公方足利持氏の子、安
	王・永寿王(足利成氏<シゲウジ>)の兄。
	 1439(永享11)永享の乱で父持氏が上杉憲実に敗れて自殺した
	後、安王とともに日光山に逃れ、常陸の結城氏朝(ユウキ・ウジトモ)
	に迎えられる。翌年、氏朝の結城城で挙兵(結城合戦)。1441
	(嘉吉元. 4.)落城し、氏朝は討死。兄弟は捕えられて京都へ送
	られる途中、春王・安王は将軍足利義教(ヨシノリ)の命により美濃
	国垂井の金蓮寺で斬首。永寿王は京都の土岐(トキ)持頼に預けら
	れる。
	(2)生年不詳。兄安王・弟成氏とともに……。
	(16)生年は1429(永享 1)。弟安王と共に……。
	(*)1429(正長 2,永享元)、1441(永享13,嘉吉元)。
あしかが まさうじ
	足利 政氏
	生年不詳
	1531(享禄 4. 7.18)
	◇室町後期の武将・第2代古河公方(コガクボウ)。戒名は
	甘棠院道長吉山。足利成氏(シゲウジ)の長男、高基(タカモト)・義明
	の父。
	 父の死後、1497(明応 6)古河公方となり、従四位下左馬頭に
	叙任される。山内・扇谷両上杉氏と結び1506(永正 3)以降、子
	の高基と対立し関東各地で転戦、1509(永正 6)上杉顕定・長尾
	景春を介して和解。
	(2)「足利高基」の項。1520(永正17)父を隠退させ、……。
	 「足利政氏」の項。'19武蔵国久喜に隠棲し,その地で没した。
	◎埼玉県久喜市の甘棠院は隠居後の館を寺にしたもの。
あしかが まさとも
	足利 政知
	1435(永享 7)
	1491(延徳 3. 4. 3)
	◇室町後期の武将。堀越公方・堀越御所。将軍足利義教(ヨシノリ)
	の第三子、八代将軍足利義政(ヨシマサ)の弟。
	 はじめ天竜寺の僧、香厳院となる。1454(享徳 3)関東公方足
	利成氏(シゲウジ)が管領上杉憲忠(ノリタダ)を誅殺し、1457年古河
	に走った際、成氏追討のため義政の命で還俗し、上杉・幕府方
	の総帥として下向したが果さず、伊豆堀越にとどまり古河公方
	成氏と対抗する。憲忠の弟上杉房顕(フサアキ)らに擁せられたが実
	権がなく、1482(文明14)幕府・成氏の和睦に際し、伊豆が領国
	として与えられる。病死。
	 政知の死後、その子茶々丸(チャチャマル)は駿河から侵入してきた
	伊勢長氏(イセ・ナガウジ)(北条早雲<ホウジョウ・ソウウン>)に滅ぼされる。
	(2)生年不詳。
	(4)生年は1441。その子茶々丸(チャチャマル)に殺されたとの説もあ
	る。
	(16)生年は1435(永享 7)
	(*)1441(永享13,嘉吉元)、1457(康正 3,長禄元)。
あしかが みつかね
	足利 満兼
	1378(<南>天授 4,<北>永和 4)
	1409(応永16. 7.22)
	◇室町前期の武将。第3代鎌倉公方(関東管領)。戒名は勝光院
	康岳道安。足利氏満(ウジミツ)の長子、満貞(ミツサダ)・満直(ミツタダ)
	の兄。
	 1398(応永 5)管領となったが三代将軍足利義満(ヨシミツ)と不和
	で、1399(応永 6)中国地方の守護大内義弘の叛(応永の乱)に応
	じ、第4代将軍義持(ヨシモチ)に代ろうとして上洛を企て、武蔵国
	府中に出陣したが、上杉朝宗(トモムネ)・憲定の諌止と、義弘の堺
	での敗死の報で鎌倉に帰る。同年、弟満貞・満直に奥羽・出羽
	を治めさせる。それを不満とする1400(応永 7)[1]伊達政宗(ダ
	テ・マサムネ)が会津の蘆名(アシナ)義盛とともに叛したので、1402(応
	永 9)上杉氏憲らを派遣して討伐させる。
	(2)1398(応永 5)第3代鎌倉公方となり、……。
	 「伊達政宗」の項。1402上杉氏憲らの大軍に攻められて降伏し
	た。
	(16)1398(応永 6)年管領となったが…….:年号が誤。
	 1404(応永11)年伊達正宗が義満と通じて叛したので、上杉氏
	憲らを派遣して討伐させた.
	(*)1398(応永 5)、1399(応永 6)。
あしかが みつさだ
	足利 満貞
	生年不詳
	1440(永享12)
	◇室町前期の武将。通称は篠川御所(ササガワゴショ)。鎌倉公方足
	利氏満(ウジミツ)の子、満兼(ミツカネ)の弟、満直(ミツタダ)の兄、持氏
	(モチウジ)の叔父。
	 1399(応永 6)第3代鎌倉公方(関東管領)満兼の命により安積
	郡篠川に下向する。それを不満とする1400(応永 7)[1]伊達政
	宗(ダテ・マサムネ)が会津の蘆名(アシナ)義盛とともに乱を起したとき
	は鎌倉方に立つ。しかし1416(応永23)上杉禅秀(氏憲)の乱では
	これを利用しようとし、さらに第3代将軍義満(ヨシミツ)と管領満
	兼の不和に乗じて勢力を拡大しようとする。第6代将軍義教(ヨ
	シノリ)も第4代鎌倉公方持氏・満直の排斥に利用しようとする。
	永享の乱(1438〜1439)で持氏・満直が自殺し、1440(永享12)反
	上杉勢力が持氏の遺児を擁して下総国結城城に結集した時(結
	城合戦)、これに応じた南奥の諸将に殺される。
	(*)本によって満貞を稲村御所、満直を篠川御所とし、逆の説
	もある事を紹介している。
	⇒あしかが みつただ(足利 満直)
あしかが みつたか
	足利 満隆
	生年不詳
	1417(応永24. 1.10)
	◇室町前期の武将。通称は新御堂殿。足利氏満(ウジミツ)の三子、
	満兼(ミツカネ)の弟、持氏(モチウジ)の叔父。
	 1416(応永23)養嗣子持仲とともに上杉禅秀(ゼンシュウ)(氏憲)と
	結び、千葉・岩松・那須・武田氏らの豪族を結集して挙兵、甥
	の鎌倉公方持氏・管領上杉憲基らを小田原に追放し鎌倉を制圧
	(上杉禅秀の乱)、禅秀に政務を管領させる。翌年、幕府が持氏
	を支持し、駿河の今川氏・越後の上杉氏らが出兵、禅秀方の将
	士の離反が相次ぎ、武蔵国世谷原の合戦に敗れ、鎌倉に攻め込
	まれて鶴岡八幡宮の雪ノ下の坊で持仲・禅秀らとともに自刃。
あしかが みつただ
	足利 満直
	生年不詳
	1439(永享11. 2.10)
	◇室町前期の武将。通称は稲村御所(イナムラゴショ)。鎌倉公方足利
	氏満(ウジミツ)の子、満兼(ミツカネ)・満貞(ミツサダ)の弟、持氏(モチウジ)
	の叔父。
	 1399(応永 6)第3代鎌倉公方(関東管領)満兼の命により岩代
	国岩瀬郡稲村に下向する。満貞が第4代鎌倉公方持氏に叛意を
	抱き幕府側についたのに対し、1424(応永31)持氏から宝剣を与
	えられ、永享の乱(1438〜1439)では持氏に従い、鎌倉永安寺で
	持氏とともに自殺する。
	(*)本によって満直を篠川御所、満貞を稲村御所とし、逆の説
	もある事を紹介している。
	⇒あしかが みつさだ(足利 満貞)
あしかが もちうじ《あしかが もちうぢ》
	足利 持氏
	1398(応永 5)
	1439(永享11. 2.10)
	◇室町前期の武将。幼名は幸玉丸。第4代鎌倉公方(関東管領)。
	足利満兼(ミツカネ)の長子。
	 1409(応永16)関東管領となり第4代将軍義持(ヨシモチ)の一字を
	賜り、持氏と改名。1416(応永23)上杉禅秀(氏憲)の乱により鎌
	倉から小田原に逃れるが、幕府の援助を受けて翌年鎮定する。
	これを機に鎌倉府の強化をはかり、関東の諸将を討ち、幕府と
	しばしば衝突する。1428(応永35. 1.)義持が没し、義教(ヨシノリ)
	(義持の弟)が還俗して第6代将軍に就任したので、これを不満
	とし「我尊氏(タカウジ)の胄(カブト)を以て管領の職を享(ウ)け、曾
	(カツ)て又義持と父子の契約あり。今の時征夷の任に居るべきも
	の、我を措(オ)きて果して誰ぞ。奚(ナン)ぞ膝を青蓮院の僧に屈
	せんや。」と言い、幕府と対立する。持氏の執事上杉憲実(ノリザ
	ネ)は和解に務めたが、かえって持氏と対立する。1437(永享 9)
	憲実は鎌倉を出奔し領国上野に帰り、1438(永享10)持氏を討と
	うと兵を動かす。将軍義教はこれを口実に憲実を援け鎌倉を討
	伐する(永享の乱)。持氏は敗れて、武蔵国金沢で剃髪し謹慎(キ
	ンシン)する。憲実が持氏を弁護したが、義教が許さなかったため、
	翌年持氏は鎌倉永安寺で自殺する。
	(*)第5代将軍義量(ヨシカズ)はすでに1425(応永32)病死している。
	 義教は青蓮院の僧であった。
あしかが もとうじ《あしかが もとうぢ》
	足利 基氏
	1340
	1367(<南>正平22,<北>貞治 6. 4.26)
	◇南北朝時代の武将。幼名は亀若・亀若丸、通称は入間川殿・
	瑞泉寺殿、法名は道(「日」偏+「斤」)。初代鎌倉公方(関東管領)。
	足利尊氏の4子、母は北条久時の娘登子。
	 はじめ左馬頭のち左兵衛頭。1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)
	兄義詮(ヨシアキラ)の上京と引き換えに初代関東管領として鎌倉に
	下向する。上杉憲顕(ノリアキ)を執事としたが、観応の擾乱(ジョウラ
	ン)で足利直義(タダヨシ)(尊氏の弟)を支持した憲顕をしりぞけ、
	1353(<南>正平 8,<北>文和 2)畠山国清(クニキヨ)を執事に登用す
	る。南朝方の新田義興(ニッタ・ヨシオキ)・義宗(ヨシムネ)兄弟らを率いる
	直義方を武蔵野合戦で撃破し、室町幕府の関東での基礎を固め
	る。関東武士の支持を失った執事畠山国清を追放し、1363(<南>
	正平18,<北>貞治 2)伊豆で討ち滅ぼす。越後に落ちていた上杉
	憲顕を関東に復帰させ執事とし、越後・上野を宇都宮氏綱(ウジ
	ツナ)から奪い憲顕に与える。また宇都宮の守護代芳賀禅可の叛
	乱を鎮圧するなど、公方・執事(上杉氏)の関東支配体制を完成
	させる。
	(2)足利尊氏の3男,……。
	(6)尊氏の第四子。
	(16)尊氏の4子.
	(*)1340(<南>延元 5,<南>興国元,<北>暦応 3)。
あしかが やすおう
	足利 安王
	1430(永享 2)、
	1441(嘉吉元. 5.16)
	◇室町中期の武将。別称は安王丸。鎌倉公方足利持氏の子、春
	王の弟、永寿王(足利成氏<シゲウジ>)の兄。
	 1439(永享11)永享の乱で父持氏が上杉憲実に敗れて自殺した
	後、春王とともに日光山に逃れ、常陸の結城氏朝(ユウキ・ウジトモ)
	に迎えられる。翌年、氏朝の結城城で挙兵(結城合戦)。1441
	(嘉吉元. 4.)落城し、氏朝は討死。兄弟は捕えられて京都へ送
	られる途中、春王・安王は将軍足利義教(ヨシノリ)の命により美濃
	国垂井の金蓮寺で斬首。永寿王は京都の土岐(トキ)持頼に預けら
	れる。
	(2)生年は1429(永享 1)。弟春王とともに……。
	(16)生年は1430(永享 2)。弟安王と共に……。
	(*)1441(永享13,嘉吉元)。
あしかが よしあき
	足利 義明
	生年不詳
	1538(天文 7.10. 5)
	◇室町後期の武将。俗名は右兵衛佐、通称は小弓御所・雪下殿、
	法号は八正院空然。第2代古河(コガ)公方足利政氏(マサウジ)の次
	子、高基(タカモト)の弟。
	 父と合わず陸奥を流浪、のち還俗して上総の武田氏に迎えら
	れ、下総国小弓に拠城する。安房の里見義弘(ヨシヒロ)と結んで第
	4代古河公方晴氏(ハルウジ)(高基の子)と対立する。1538(天文 7)
	晴氏の舅(シュウト)北条氏綱・その子氏康と下総国国府台に、里見
	義堯(ヨシタカ)とともに戦い、義明は敗死。
	(2)上総の武田氏に迎えられ,……。
	(16)下総の武田氏に迎えられて……。
あしかが よしあき
	足利 義昭
	1537(天文 6)
	1597(慶長 2. 8.28)
	◇室町幕府の第15代将軍。法名は覚慶、法号は昌山。第12将軍
	足利義晴(ヨシハル)の子、母は関白近衛尚通の娘。
	 はじめ奈良の興福寺一条院の門跡(モンセキ)、覚慶と号する。
	1565(永禄 8. 5.)兄の第13代将軍足利義輝(ヨシテル)が三好義継(ヨ
	シツグ)に殺された際、松永久秀(ヒサヒデ)に同院に幽閉され、七月
	細川藤孝(フジタカ)(幽斎)に救われて近江(オウミ)に和田秀盛の許に
	のがれ、翌年還俗(ゲンゾク)し義秋と称する。1567(永禄10)越前
	の朝倉義景(ヨシカゲ)を頼り、4月元服して義昭と改名。1568(永
	禄11)織田信長に迎えられて美濃に入り、擁立されて 9.28京都
	に入り10.18従四位下征夷大将軍になる。信長の勢力が増大す
	るにつれて不和となり、武田信玄・毛利・朝倉・浅井・本願寺
	など反信長勢力を糾合し、1573(元亀 4)京都で挙兵したが、敗
	れて和睦。同年宇治の槇島城に拠って挙兵するが、陥落。三好
	義継の居城の河内国若江に移され、すべての官位を奪われて室
	町幕府は滅亡する。諸国を流浪し、1576(天正 4)紀伊から備後
	国鞆津に移り、毛利元就(モトナリ)を頼り幕府再興をはかるが、こ
	れが信長の中国攻略の原因となる。1587(天正15)全国統一した
	豊臣秀吉に迎えられ、1万石を給される。1588(天正16)出家し
	て昌山と号し、大坂で没する。
あしかが よしあきら
	足利 義詮
	1330(元徳 2)
	1367(<南>正平22,<北>貞治 6.12. 7)
	◇室町幕府第2代将軍。幼名は年寿王、のち坊門殿。初代将軍
	足利尊氏(タカウジ)の第3子、母は北条久時の娘登子。第3代将
	軍義満(ヨシミツ)の父。
	 1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2)元弘の変において4歳で尊氏
	の名代として新田義貞(ニッタ・ヨシサダ)の鎌倉攻めの軍に加わる。
	尊氏の叛後、1343(<南>興国 4,<北>康永 2)京都に上り、足利
	直義(タダヨシ)に代って政務をとり、後光厳院を奉じ、1358(<南>
	正平13,<北>延文 3)尊氏の後を継いで征夷大将軍になる。
	 将軍就任1358(<南>正平13,<北>延文 3.12. 8)、退任(死亡)
	1367(<南>正平22,<北>貞治 6.12. 7)。
	(2)幼名は千寿王,のち坊門殿。足利尊氏の次男,……。
	(4)尊氏の第三子。
	(16)幼名は年寿王,のち坊門殿。足利尊氏の3子.
[1]あしかが よしうじ
	足利 義氏
	1189(文治 5)
	1254(建長 6.11.21)
	◇鎌倉中期の武士。名は三郎、法名は正義。足利義兼の第3子、
	母は北条時政の娘。
	 北条泰時の娘を娶り、1213年和田の乱、1221(承久 3)承久の
	乱では泰時に従い、美作(ミマサカ)の所領を加賜される。1247(寛
	元 5)三浦氏の乱では上総権介平秀胤の所領を与えられる。そ
	の後、蔵人・検非違使・武蔵守・陸奥守・左馬頭を歴任、正四
	位下に叙せられる。
	(2)足利義兼の長男,……。蔵人,検非違使,武蔵・相摸守を
	経て,左馬頭,正四位下にすすんだ。
	(16)3子であるが,嫡子に選ばれて家をつぎ,……。蔵人・検
	非違使・武蔵守・陸奥守・左馬頭を歴任,正四位下に叙せられ
	た.
	(*)1213(建暦 3,建保元)。
[2]あしかが よしうじ
	足利 義氏
	生年不詳
	1582(天正10)
	◇戦国時代の武将。第5代古河公方(コガクボウ)。足利晴氏(ハルウジ)
	の子。
	 父晴氏が北条氏康に敗れて、父子ともに相摸国波多野に幽閉
	される。翌1555年、氏康に擁立されて家督を継ぎ、傀儡(カイライ)
	となる。嗣子がなく、古河公方は断絶する。のち足利義明の嫡
	孫国朝が豊臣秀吉の計らいで古河公方のあとを継ぎ、下野喜連
	川に移り、喜連川(キツレガワ)氏を称する。
	(*)1555(天文24,弘治元)。
あしかが よしかず
	足利 義量
	1407(応永14. 7.)
	1425(応永32. 2.27)
	◇室町幕府の第5代将軍。第4代将軍足利義持(ヨシモチ)の子、母
	は裏松資康の娘栄子。
	 1417(応永24)元服。1423(応永30)父の出家により将軍に就任、
	在任三年で病死。
	 義量に子がなく、義持にも義量の他に子がなかったため、
	1428(応永35. 1.)義持は臨終に際し継嗣問題を管領以下の諸大
	名に委(ユダ)ねる。
	 将軍就任1423(応永30. 3.18)、退任(死亡)1425(応永32. 2.
	27)。
あしかが よしかつ
	足利 義勝
	1434(永享 6. 2.)
	1443(嘉吉 3. 7.21)
	◇室町幕府の第7代将軍。幼名は千也茶丸。第6代将軍義教の
	長子、母は裏松重光の娘重子(シゲコ)。
	 1441年、嘉吉の乱で父が赤松満祐に殺されたため、管領細川
	持之らに擁立されて8歳で家督を継ぎ、義勝と改名。翌年元服
	し征夷大将軍となり畠山持国の補佐を受ける。在任1年足らず
	で赤痢を病み死亡。
	 将軍就任1442(嘉吉 2.11. 7)、退任(死亡)1443(嘉吉 3. 7.
	21)。
	(*)1441(永享13,嘉吉元)。
あしかが よしかね
	足利 義兼
	生年不詳
	1199(建久10. 3. 8)
	◇鎌倉前期の武将。名は三郎兵衛尉・足利蔵人、法号は義称。
	源義家(ヨシイエ)の曾孫、義康(ヨシヤス)の第3子。母は熱田大宮司範
	忠の娘で源頼朝(ヨリトモ)の従母姉妹、または熱田大宮司季範の娘
	で頼朝の叔母。
	 1180(治承 4)源頼朝の挙兵に応じ、源範頼(ノリヨリ)(頼朝の弟)
	に従って西海に平氏を討つ。1189(文治 5)奥州藤原氏征伐で戦
	功を立て、遠江守。1190年、大河兼任の乱を平定。頼朝の信任
	があつく、頼朝の命により北条時政(トキマサ)の娘(政子の同母妹)
	と結婚する。
	 のち東大寺において出家。
	(2)平氏を討ち,功により上総介。
	(16)下総介.従四位下.
	(*)1190(文治 6,建久元)
あしかが よしずみ
	足利 義澄
	1480(文明12.12.)
	1511(永正 8. 8.14)
	◇室町幕府の第11代将軍。堀河公方足利政知(マサトモ)の第2子、
	母は藤原隆光の娘。第八代将軍義政(ヨシマサ)の養子。初名は義遐
	・義高。
	 政知が弑された後、遠江(トオトウミ)の今川氏親(ウジチカ)に拠って
	いたが、1487年天竜寺に入り香厳院清晃と称する。1493(明応
	 2)管領細川政元に擁立されて還俗、義遐ついで義高と称し、
	第10代将軍義稙(ヨシタネ)を幽閉し政元とともに戦い、翌年将軍と
	なる。1502(文亀 2)義澄と改名。1508(永正 5)義稙と大内義興
	(ヨシオキ)の軍に攻められ、近江の六角高頼(ロッカク・タカヨリ)を頼り朽
	木谷に逃れ、義稙に官位を剥奪され、まもなく近江の山岳で没
	する。
	 将軍就任1494(明応 3.12.27)、退任1508(永正 5. 4.16)。
	(2)生年は1479(文明11)。義遐(よしとお)。
	(4)生年は1480。
	(16)生年は1480(文明12.12.)。義遐(よしか)。
	(*)1487(文明19,長享元)
あしかが よしたね
	足利 義稙
	1466
	1523(大永 3. 4. 9)
	◇室町幕府の第10代将軍。初名は義材(ヨシキ)のち義尹(ヨシタダ)・
	義稙。足利義視(ヨシミ)の子、母は日野富子の妹、第8代将軍足
	利義政(ヨシマサ)の養子。
	 幼時に武田信賢(ノブカタ)に、のち山名持豊(モチトヨ)に頼る。第
	9代将軍義尚(ヨシヒサ)が六角高頼(ロッカク・タカヨリ)攻めの陣中で没す
	ると、父義視とともに上洛し、翌1490(延徳 2)征夷大将軍に就
	任、畠山政長(マサナガ)を京に迎える。1493(明応 2)畠山義就(ヨシ
	ナリ)の子義豊が河内国誉田城に挙兵、細川政元をはじめ山名・
	一色ら諸将がこれに呼応し、政長は敗れて自刃、義稙は捕われ
	る。足利義澄(ヨシズミ)が征夷大将軍に就任。越中に逃れ、1497
	(明応 6)越前の朝倉貞景を頼り京都回復を図って敗れ、1499
	(明応 8)周防の大内義興(ヨシオキ)のもとに走る。
	 1508(永正 5)大内義興・細川高国(タカクニ)に奉ぜられて上洛し、
	将軍義澄その擁立者細川澄元(スミモト)を追って将軍職に復帰。
	1518(永正15)義興が周防に帰国。1521年、高国と対立し淡路に
	出奔、流れ公方・島公方と呼ばれる。同年、高国は足利義晴(ヨ
	シハル)を迎えて将軍にする。
	 のち阿波国撫養(ムヤ)に移り没する。
	 将軍就任1490(延徳 2. 7. 5)、退任1521(大永元.12.25)。
	(*)1466(寛正 7,文正元)、1521(永正18,大永元)。
あしかが よしつぐ
	足利 義嗣
	1394
	1418(応永25. 1.24)
	◇第3代将軍足利義満(ヨシミツ)の子、第4代義持(ヨシモチ)の弟。
	 1416(応永23)上杉禅秀(ゼンシュウ)(氏憲)の叛乱計画に加担して、
	近江の六角氏らと挙兵を企てるが露顕し、相国寺林光院に幽閉
	される。1418(応永25)放火し脱出をはかるが失敗し殺される。
	(*)1394(明徳 5,応永元)。
あしかが よしてる
	足利 義輝
	1536(天文 5)
	1565(永禄 8. 5.19)
	◇室町幕府の第13代将軍。幼名は菊童丸、初名は義藤、戒名は
	光源院(コウゲンイン)道円融山。第12代将軍義晴(ヨシハル)の長子、母
	は関白近衛尚道の娘、第15代将軍義昭(ヨシアキ)の兄。
	 父とともに近江国坂本に戦乱を避ける。1546(天文15)征夷大
	将軍に就任。1548(天文17)京に帰り、細川晴元(ハルモト)を管領と
	する。晴元と三好長慶(ミヨシ・ナガヨシ)・細川氏綱(ウジツナ)との抗争
	を避け、1549(天文18)晴元とともに京を追われ再び坂本に、さ
	らに1550(天文19)比叡山に逃れる。1552(天文21)長慶と和を結
	んで京に帰り、氏綱を管領に任ずる。しかし長慶とその家臣松
	永久秀(ヒサヒデ)の勢力が強く、将軍は有名無実であった。1554
	(天文23)氏綱に代えて晴元を召還しようとし、長慶に近江国朽
	木に追われ、義輝と改名。1558年、長慶と和し京に戻るが、
	1564(永禄 7)長慶の死後、政権の奪還を企てたが、翌年、久秀
	らに攻められ討死。
	 将軍就任1546(天文15.12.20)、退任(死亡)1565(永禄 8. 5.
	19)。
	(2)'54氏綱に代えて晴元を召還しようとして長慶に追われ、晴
	元とともに近江国朽木に逃れて、義輝と改名。
	 「三好長慶」の項。'53義輝を近江国朽木に追う。
	(*)1558(弘治 4,永禄元)。
あしかが よしのり
	足利 義教
	1393(<南>元中10,<北>明徳 4)
	1441(嘉吉元. 6.24)
	◇室町幕府の第6代将軍。足利義満の第4子。室は裏松重光の
	娘重子(シゲコ)。
	 初め青蓮院に入り、義円と称し天台座主(ザス)となる。兄義
	持(ヨシモチ)の死後、1428年還俗(ゲンゾク)して家を継ぐ。1429(正
	長 2. 3.)将軍となり(傍系相続)、義教と名乗る。1438(永享10)
	関東公方(クボウ)足利持氏(モチウジ)の反乱を鎮圧(永享の乱)、鎌
	倉足利家を滅ぼす。幕威伸張を図り守護大名の相続問題に干渉
	し、1440(永享12)一色義貫(イッシキ・ヨシツラ)・土岐持頼を殺したこ
	とから反感を招き、赤松満祐(ミツスケ)に暗殺される(嘉吉<カキツ>の
	乱)。
	 将軍就任1429(正長 2. 3.15)、退任(死亡)1441(嘉吉元. 6.
	24)。
	(2)生年は1394(応永 1)。
	(4)生年は1393。
	(6)生年は1394。
	(16)生年は1394(応永 1)。
	(*)1394(明徳 5,応永元)、1428(応永35,正長元)。
あしかが よしはる
	足利 義晴
	1511(永正 8)
	1550(天文19. 5. 4)
	◇室町幕府の第12代将軍。幼名は亀王丸。第11代将軍義澄(ヨシズ
	ミ)の長子。
	 播磨の赤松義村(ヨシムラ)の許で成長。1520(永正17)細川澄元(ス
	ミモト)に奉ぜられて細川高国(タカクニ)と戦い、敗れて播磨に逃げる。
	1521(大永元)第10代将軍義稙(ヨシタネ)を追放した高国と六角定頼
	(ロッカク・サダヨリ)に迎えられて上洛し将軍となる。
	 1528年、丹波の波多野稙通らに呼応して叛いた三好元長に追
	われて、近江の朽木(クツキ)稙綱を頼る。1531(享禄 4)澄元の子
	細川晴元(ハルモト)は元長を和泉国堺で攻め滅ぼし、1532年、晴元
	に擁せられて帰洛。1536(天文 5)晴元を管領に任ずる。
	 将軍の実権がなく、1546(天文15)晴元に追われて近江国坂本
	に逃れ、子の義輝(ヨシテル)に将軍職を譲り、その後各地を流転し、
	近江国穴太で没した。
	 将軍就任1521(大永元.12.25)、退任1546(天文15.12.20)。
	(*)1528(大永 8,享禄元)、1532(享禄 5,天文元)。
あしかが よしひさ
	足利 義尚
	1465(寛正 6.11.)
	1489(長享 3. 3.26)
	◇室町幕府の第9代将軍。のち義煕(ヨシヒロ)。第8代将軍義政(ヨ
	シマサ)の子、母は日野富子(トミコ)。
	 はじめ義政に子がなく、弟義視(ヨシミ)を1464(寛正 5)還俗さ
	せ後嗣とするが、翌年義尚が生れる。母富子は義視の後見であ
	る細川勝元と対抗できる山名持豊(宗全)を頼り、義尚擁立を策
	する。この義視と義尚の係争と畠山・斯波家の家督争いから応
	仁の乱が引き起きる。
	 1473(文明 5)将軍に就任し、幼少のため政務は父義政がとる。
	1479(文明11)義尚がはじめて政務をとる。幕府の権威回復のた
	め、1487年、近江の六角高頼(タカヨリ)(佐々木高頼)を攻める。
	1488(長享 2)義煕と改名。1489(長享 3)近江国鈎(マガリ)(勾里)
	の陣中で病没。
	 将軍就任1473(文明 5.12.19)、退任(死亡)1489(長享 3. 3.
	26)。
	(*)1487(文明19,長享元)
あしかが よしひで
	足利 義栄
	1540(天文 9)
	1568(永禄11. 9.)
	◇室町幕府の第14代将軍。初名は義親。阿波生れ。足利義維(ヨ
	シツナ)の長子、母は周防の大内介の娘。第11代将軍義澄(ヨシズミ)
	の孫。
	 1549(天文18)三好長慶(ナガヨシ)ら三人衆に迎えられて四国の
	阿波から入洛。1564(永禄 7)第13代将軍義輝が松永久秀(ヒサヒデ)
	に殺される。1566(永禄 9)義栄と改名し、1568(永禄11)将軍に
	就任。同年、織田信長が足利義昭(ヨシアキ)を奉じて入京すると、
	摂津国富田に逃れて病死。
	 将軍就任1568(永禄11. 2. 8)、退任(死亡)1568(永禄11. 9.)。
あしかが よしまさ
	足利 義政
	1436(永享 8)
	1490(延徳 2. 1. 7)
	◇室町幕府の第8代将軍。幼名は三春のち義成・義政。東山殿。
	戒名は道慶喜山慈照院。六代将軍義教(ヨシノリ)の子、七代将軍義
	勝の弟、義視(ヨシミ)の兄、九代将軍義尚(ヨシヒサ)の父。室は日野
	富子(ヒノ・トミコ)。
	 1443(嘉吉 3)七代将軍義勝の早世により、細川勝元・畠山持
	国らに擁立されて家督を継ぎ、1449年征夷大将軍となる。1453
	(享徳 2)従一位権大納言に任ぜられ義政と改名。1460年、左大
	臣。1464(寛正 5)准三宮、嗣子がないため弟の浄土寺門跡義尋
	を還俗させ後嗣とし義視と改名させる。翌年、夫人富子と間に
	実子義尚が生れる。富子は義視の後見である細川勝元と対抗で
	きる山名持豊(宗全)を頼り、義尚擁立を策する。この義視と義
	尚の係争と畠山・斯波家の家督争いから応仁の乱が引き起きる。
	1473(文明 5)富子に将軍職を義尚へ譲らされ、東山に山荘銀閣
	(慈照寺)を造り隠居し、戦乱をよそに茶の湯など風雅な生活を
	送る。1489年義尚が死亡し、再び政治を執るが翌年死亡。
	 土一揆の多発・守護大名の台頭・一代に徳政令が十三回行わ
	れるなど政治・経済が混乱する一方、美術工芸など文化面では
	興隆、貴族的武家文化が開花し、東山時代といわれる。
	(2)生年は1436(永享 8)。
	(4)生年は1435。
	(6)生年は1435。
	(16)生年は1436(永享 8)。
	(*)1449(文安 6,宝徳元)、1460(長禄 4,寛正元)、1489(長享 3,
	延徳元)。
あしかが よしみ
	足利 義視
	1439(永享11. 1.)
	1491(延徳 3. 1. 7)
	◇室町中期の武将。初名は義躬(ヨシミ)、僧名は義尋、通称は
	今出川殿。第6代将軍足利義教(ヨシノリ)の第4子、第10代将軍義
	稙(ヨシタネ)の父、第8代将軍義政(ヨシマサ)の弟。
	 兄義政に嗣子がないため弟の浄土寺門跡義尋を1464(寛正 5)
	還俗させ後嗣とし義視と改名させる。翌年、夫人富子と間に実
	子義尚(ヨシヒサ)が誕生、義視は細川勝元に擁せられて相続争いと
	なり、応仁の乱のきっかけとなる。1467年、伊勢の国司北畠教
	具の許に逃れ、のち1468(応仁 2)義政の勧奨と後花園上皇の勅
	書とによって一旦帰洛する。日野勝光・伊勢貞親らの介在で再
	び義政と不和になり、官位を削られる。西軍の山名持豊に迎え
	られ、再び義政と対抗する。1477(文明 9)美濃の土岐成頼の許
	に下り、1489(長享 3. 3.)義尚の死去によって義政と和睦し、
	子の義稙の将軍就任にため帰洛する。
	(*)1467(文正 2,応仁元)
あしかが よしみつ
	足利 義満
	1358(<南>正平13,<北>延文 3. 8.22)
	1408(応永15. 5. 6)
	◇室町幕府の第3代将軍。幼名は春王、法号は道宥・道義、通
	称は北山殿、号は鹿苑院。従一位太政大臣。第2代将軍義詮(ヨ
	シアキラ)の長子、母は石清水八幡宮検校善法寺通清の娘紀良子。
	第4代将軍義持(ヨシモチ)・義嗣(ヨシツグ)の父。
	 1367(<南>正平22,<北>貞治 6.12.)父の死で家督を継ぎ、管
	領細川頼之の補佐を受ける。
	 1368(<南>正平23,<北>応安元)元服し将軍に就任。
	 1369(<南>正平24,<北>応安 2)参議となり、公卿に列する。
	 1371(<南>建徳 2,<北>応安 4)以降、九州探題の今川了俊(リョ
	ウシュン)(貞世)に南朝軍を征服させ九州を統一。
	 1378(<南>天授 4,<北>永和 4)京都北小路室町に邸宅室町第
	(花の御所)を造営。
	 1379年、管領を細川頼之から斯波義将(ハシバ・ヨシマサ)に更迭。
	1389年、再び細川頼之を起用し、その補佐で幕府の安定を図る
	ため11ヶ国の守護職を持つ山名氏の内紛に乗じて、1391(<南>
	元中 8,<北>明徳 2)山名氏清・満幸を滅ぼす(明徳の乱)。
	 1392(<南>元中 9,<北>明徳 3)後亀山天皇の還幸を請い、南
	北朝合一に成功。
	 1393(<南>元中10,<北>明徳 4)斯波義将を管領にし、斯波・
	細川両氏を相互牽制させる。
	 1394(明徳 5,応永元)将軍職を9歳の義持に譲り、武士とし
	て初の太政大臣となり、翌年これを辞して出家し、京都北山に
	隠居。
	 1397(応永 4)最初の遣明使を派遣して勘合貿易を行なう。京
	都北山に山荘北山第(のちの金閣)を造営など、幕府の全盛を築
	く。また、能楽を奨励している。
	 1398(応永 5)畠山基国を管領とする。
	 1399(応永 6)大内義弘の反乱を鎮圧(応永の乱)、強力な守護
	の勢力を弱めた。
	 1403(応永10)明の永楽帝に対し自らを「日本国王臣源道義」と
	号し、臣下の立場を明らかにする。
	 1406(応永13)義満の室日野康子(ヤスコ)(北山院)が准三宮(ジュサ
	ングウ)(後小松天皇の准母)となり、翌年院号の宣下を受ける。
	1408(応永15)後小松天皇が北山第に行幸。間もなく病死し、太
	政法皇の尊号宣下があったが、斯波義将や義持らが辞退する。
	 将軍就任1368(<南>正平23,<北>応安元.12.30)、退任1394(明
	徳 5,応永元.12.17)。
	(2)法名道有のち道義。
	(16)法号は道宥または道義.
	(17)法名を道有、ついで道義と称し、……。
	(*)1379(<南>天授 5,<北>永和 5,<北>康暦元)、1389(<南>元中
	 6,<北>嘉慶 3,<北>康応元)。
あしかが よしもち
	足利 義持
	1386(<南>元中 3,<北>至徳 3)
	1428(応永35. 1.18)
	◇室町幕府の第4代将軍。法号は道詮。第3代将軍義満(ヨシミツ)
	の長子、母は藤原慶子、第5代将軍義量(ヨシカズ)の父、足利義
	嗣(ヨシツグ)の兄。
	 1394(応永元.12.)9歳で元服し、従五位下征夷大将軍。1396
	(応永 3)参議。1397(応永 4)中納言。1401(応永 8)権大納言。
	1402(応永 9)従一位。1408(応永15. 5.)父義満が亡くなり、斯
	波義将(シバ・ヨシマサ)らの補佐により政務を執る。1409(応永16)内
	大臣。対明貿易を打ち切る。1416(応永23)上杉禅秀(ゼンシュウ)
	(氏憲)の乱を平定、加担した弟義嗣を処罰する。以降、第4代
	鎌倉公方足利持氏(モチウジ)と拮抗。1419(応永26)内大臣を辞す。
	1423(応永30)将軍職を子の義量に譲り、出家し道詮と称する。
	1425(応永32)義量の早世により再び政務を執る。1428(応永35)
	重病となり、継嗣を決定せず管領以下有力大名の協議に任せ、
	死去。
	 将軍就任1394(応永元.12.17)、退任1423(応永30. 3.18)。
あしかが よしやす
	足利 義康
	生年不詳
	1157(保元 2)
	◇平安末期の武将。通称は三郎。足利氏の祖。清和源氏義国(ヨ
	シクニ)の第3子、母は藤原有房の娘、新田義重(ヨシシゲ)の弟。
	 鳥羽上皇に仕え北面武士となる。左衛門大尉・陸奥守・検非
	違使に任ぜられる。1156(久寿 3,保元元)保元の乱では百余騎
	を率いて後白河天皇方として源義朝(ヨシトモ)らとともに活躍し、
	平家弘父子らを大江山に斬り、その功により蔵人となり昇殿を
	許される。
	 子の義清(ヨシキヨ)は仁木・細川などの祖、義兼(ヨシカネ)は足利・
	畠山・桃井・吉良・今川・斯波・渋川・石堂・一色などの祖。
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