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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6003.02

                 人   名   辞   典   《あき》      編集:獨  澄旻

-------- あき --------------------------------------------------
あきずき たねざね
	秋月 種実
	⇒あきづき たねざね(秋月 種実)
あきた うじゃく
	秋田 雨雀
	1883. 1.30(明治16)
	1962. 5.12(昭和37)
	◇劇作家・小説家・童話作家・社会運動家。本名は徳三。青森
	県南津軽郡黒石町生れ。1907(明治40)早稲田大学英文科卒業。
	 島村抱月に師事し芸術座に参加。のち社会主義運動にも参加。
	(1)誕生日は 1.30。
	(3)誕生日は 1.30。
	(5)誕生日は 1.31。
	(8)誕生日は 1.30。
	(11)誕生日は 1.31。
	(13)誕生日は 2. 2。
	(16)誕生日は 1.30、没日は 5.17。
あきた さねすえ
	秋田 実季
	1576(天正 4)
	1659(万治 2.12.14)
	◇江戸初期の常陸宍戸藩主。幼名は安東太郎。愛季の子。
	 はじめ出羽檜山城に居り豊臣秀吉に属したが、関ヶ原の戦に
	は東軍に加わり、宍戸城に転封される。
あきた しげる
	秋田 滋
	1908. 7. 5(明治41)
	1943.10.15(昭和18)
	◇フランス文学者・翻訳家。
あきた みのる
	秋田 実
	1905. 7.15(明治38)
	1977.10.27(昭和52)
	◇漫才作家。本名は林広次(ヒロツグ)。大阪生れ。東京大学支那
	哲学科卒業。1934(昭和 9)吉本興業文芸部に入る。
あきづき たついちろう《あきづき たついちらう》
	秋月 辰一郎
	1916(大正 5)
	2005.10.20(平成17)
	◇被爆医師。長崎生れ。
	 1945. 8. 9(昭和20)長崎の浦上第一病院(現:聖フランシスコ
	病院)で診療中に被爆。その直後から被爆者医療に長年従事。
	 1984(昭和59)ローマ法王庁から聖シルベステル勲章を受章。
あきづき たねざね
	秋月 種実
	1545(天文14)
	1596(文禄 5. 9.26)
	◇戦国時代の武将。幼名は黒帽子丸、通称は修理大夫・筑前守、
	号は宗(「門」構えに「言」)(ソウギン)。筑前秋月城主秋月種方の次
	男。
	 1557(弘治 3)種方が大友義鎮に敗死して、家督を継ぐ。毛利
	氏を頼り、しばしば大友氏と戦う。1587(天正15)豊臣秀吉の島
	津氏征伐で、島津氏を援けて大隅城を守るが、敗れて軍門に下
	り諸城を没収される。
あきば たろう《あきば たらう》
	秋庭 太郎
	1907. 5.19(明治40)
	1985. 3.17(昭和60)
	◇近代演劇・文学研究家。東京生れ。1930(昭和 5)東洋大学大
	学院卒業。
あきば としひこ
	秋庭 俊彦
	1885. 4. 5(明治18)
	1965. 1. 4(昭和40)
	◇ロシア文学者・俳人。東京生れ。早稲田大学英文科卒業。品
	川東海寺にはいり沢庵和尚(タクアンオショウ)三代をつぐ。
	(3)誕生日は1884. 4. 7(明治17)、没日は 1. 5。
	(5)誕生日は1885. 4. 5(明治18)、没日は 1. 4。
	(8)誕生日は1885. 4. 5(明治18)、没日は 1. 4。
	(11)誕生日は1885. 4. 5(明治18)、没日は記載なし。
あきひと しんのう《あきひと しんわう》
	彰仁 親王
	1846(弘化 3)
	1903(明治36)
	◇伏見宮第19世邦家親王の第8王子。
	 1870(明治 3)分家して東伏見宮を創立、のち1882(明治15)小
	松宮と改称。
	 議定・軍事総裁として鳥羽伏見の戦などに従軍。のち参謀総
	長。陸軍大将・元帥。
あきひろおう《あきひろわう》
	顕広王
	1095(嘉保 2)
	1180(治承 4. 7.19)
	◇平安後期の神祇伯。花山源氏の出で顕康(アキヤス)の子、母は筑
	前守藤原敦憲の娘。
	 1165年、神祇伯となり、王(白川伯)と称する。
	(*)1165(長寛 3,永万元)。
あきもと しょういちろう《あきもと しやういちらう》
	秋元 正一郎
	1823(文政 6)
	1862(文久 2. 8.29)
	◇江戸後期の国学者。名は安民、のち正蔭、通称は正一郎。姫
	路藩士秋元右源次の子。
	 大国隆正(オオクニ・タカマサ)・伴信友(バン・ノブトモ)に師事。播磨国三
	木の開墾に従事。同藩の国学寮教授となる。安政年間(1854〜
	1860)江戸で洋式帆船の構造を研究。晩年、京都で勤皇運動に
	携わる。
あきもと ふじお《あきもと ふじを》
	秋元 不死男
	1901.11. 3(明治34)
	1977. 7.25(昭和52)
	◇俳人。本名は不二雄、旧号は地平線・東(ヒガシ)京三。横浜市
	本町生れ。劇作家秋元松代(マツヨ)の実兄。
	 「氷海」を創刊。
	(11)生年は1905(明治38)。
	(13)生年は1901(明治34)。
	◆不死男忌[ 7.25]。
あきやま ぎょくざん
	秋山 玉山
	1708(宝永 5)
	1763(宝暦13.12.11)
	◇江戸中期の儒学者(朱子学派)。名は儀、通称は儀右衛門、字
	は子羽、号は玉山・青柯。豊後国鶴崎の人。中山定勝の子。
	 細川家の医員の叔父秋山需庵に養われ、医業を継ぐ。かたわ
	ら水足屏山・三浦梅園に学ぶ。肥後藩主細川氏に従い江戸に出
	て、昌平黌に入り林鳳岡(ホウコウ)に学ぶ。帰藩し藩校時習館を設
	立、祭酒(校長)になる。
	(2)生年は1702(元禄15)。
	(16)生年は1708(宝永 5)。
あきやま さねゆき
	秋山 真之
	1868(慶応 4)
	1918(大正 7)
	◇明治・大正期の海軍軍人・中将。伊予国(愛媛県)松山生れ。
	松山藩士秋山平五郎久敬の子、秋山好古(ヨシフル)の弟。海兵17
	期生。
	 日露戦争では東郷平八郎指令長官の幕僚として連合艦隊の作
	戦参謀。日本海海戦に、「舷々相摩す」・「天気明朗なれども波
	高し」などの語を作る。第一次世界大戦では軍務局長。
あきやま しゅうこうりょう
	秋山 秋紅蓼
	1885.12.24(明治18)
	1966. 1.19(昭和41)
	◇俳人。本名は鉄雄。
あきやま しょうたろう《あきやま しやうたらう》
	秋山 庄太郎
	1920. 6. 8(大正 9)
	2003. 1.16(平成15)
	◇写真家。東京神田生れ。
	 早稲田大学商学部、卒業。
	 1947(昭和22)近代映画社に入社。
	 1986(昭和61)紫綬褒章、受章。
あきやま ていすけ
	秋山 定輔
	1868
	1950(昭和25)
	◇明治・大正期の政治家。岡山県出身。東京大学卒業。
	 1890(明治23)法制局試補に任ぜられる。1893(明治26)大井憲
	太郎・神鞭知常(コウムチ・トモツネ)らと大日本協会の機関誌で報道中
	心の日刊新聞「二六新報」を創刊、社長となる。1895(明治28)不
	振りで休刊となり、1900(明治33)再刊、大衆的新聞となる。
	1902(明治35)代議士。日露戦争のとき、スパイ「露探」の嫌疑を
	受け、1904. 3.(明治37)辞職。1905(明治38)日露講和条約反対
	の日比谷焼打事件に関係する。黎明期の労働運動を支援。のち
	宮崎滔天(トウテン)らと親交を重ね、孫文の革命運動を支援し、大
	陸問題で政界の黒幕的存在となる。
	(*)1868(慶応 4,明治元)。
あきやま まさか
	秋山 正香
	1903.11.24(明治36)
	1966.10.31(昭和41)
	◇小説家。
あきやま やすさぶろう
	秋山 安三郎
	1886. 3. 9(明治19)
	1975. 6.19(昭和50)
	◇演劇評論家・随筆家。東京浅草生れ。
あきやま よしふる
	秋山 好古
	1859(安政 6)
	1930(昭和 5)
	◇明治・大正期の陸軍軍人・大将。通称は信三郎。伊予国(愛
	媛県)松山(現:歩行町2丁目)生れ。松山藩士秋山平五郎久敬の
	3男、秋山真之(サネユキ)の兄。
	 1875(明治 8)大阪の師範学校を卒業し、名古屋で小学校教員
	となる。1877(明治10)陸軍士官学校旧3期生、1883(明治16)陸
	軍大学校に進み、騎兵科卒業。1887(明治20)旧藩主久松定謨の
	補導役として4年間フランスに留学。
	 日清戦争では騎兵第一大隊長。戦後は陸軍乗馬学校長。
	 日露戦争では騎兵第一旅団長。騎兵監・師団長・軍事参議官
	を歴任。
	 1916(大正 5)大将。1923(大正12)退役。
	 北伊予中学校(現:松山北高校)校長。
あきやま ろくろうべえ
	秋山 六郎兵衛
	1900. 4.11(明治33)
	1971. 8.23(昭和46)
	◇ドイツ文学者。
あきら さだよし
	秋良 貞温
	1811(文化 8)
	1890(明治23)
	◇幕末の尊皇攘夷派志士。通称は敦之助。周防国熊毛郡阿月村
	生れ。長州藩浦靱負の家臣。家老となり、ペリー来航後尊皇攘
	夷を藩主に建言。江戸で諸藩の志士と交わる。維新後は藩の政
	事堂に出仕、のち教部省諸官などを経て、神道教院少教正に任
	ぜられる。
あくたがわ ひろし
	芥川 比呂志
	1920. 3.30(大正 9)
	1981.10.28(昭和56)
	◇俳優・演出家・随筆家。東京生れ。芥川龍之介の長男。
	 慶応義塾大学仏文科卒業。
	 1948(昭和23)文学座に参加。
あくたがわ よしお
	芥川 徳郎
	1886. 3.20(明治19)
	1969.11.30(昭和44)
	◇歌人。号は葭穂。
あくたがわ りゅうのすけ《あくたがは りゆうのすけ》
	芥川 竜之介(芥川 龍之介)
	1892. 3. 1(明治25)
	1927. 7.24(昭和 2)
	◇大正時代の小説家。辰年辰月辰日の辰の刻の生れにちなみ龍
	之介と命名された、初期の筆名は柳川隆之介、号は澄江堂(チョウ
	コウドウ)主人・寿陵余子(ジュリョウヨシ)・我鬼(ガキ)(俳句)、旧姓は
	新原(ニイハラ)、芥川は母の姓。東京市京橋区入船町8丁目1番地
	(現:中央区明石町10〜11番地)生れ。新原敏三の長男、母は
	ふく。新劇俳優芥川比呂志(ヒロシ)・作曲家芥川也寸志の父。
	 実母ふくが彼の生後九ヶ月ごろから発狂したため、その実家
	(本所区小泉町:現在の墨田区両国3丁目)の伯父芥川道章に養
	われ、のち12歳のとき養子となる。養母は細木香以(サイキ・コウイ)
	の姪の儔である。
	 1916. 7.(大正 5)東京帝国大学英文科卒業。卒業後、海軍機
	関学校の英語教官となり鎌倉に住み、1919(大正 8)辞職して上
	京。のち大阪毎日新聞社社員。
	 1914(大正 3)在学中、菊池寛・久米正雄らと第三次「新思潮」
	を発刊。『鼻』が夏目漱石に認められる。歴史に題を取る小説
	が多い。田端の自宅で睡眠薬(ヴェロナール)自殺。
	 1935(昭和10)龍之介を記念して文藝春秋社が無名または新進
	作家に贈る芥川賞を設ける。
	 作品は『地獄変』・『羅生門』・『河童』・『或阿呆の一生』
	など。
	◎1927. 3. 7(昭和 2)東京朝日新聞に北原白秋監修の『日本児
	童文庫』(アルス)と菊池寛・芥川龍之介責任編集の『小学生全
	集』(興文社・文藝春秋社)の広告が同時に掲載され、互いに誹
	謗しあい訴訟にまで発展。龍之介は白秋と菊池の板挟みとなり、
	自殺の遠因となったといわれている。
	 養家には母ふくの姉ふきがおり、龍之介はこの伯母を慕って
	いた。
	 龍之介の長姉は夭折。次姉ハツは再婚し、その相手西川豊は
	莫大な保険金をかけた家が焼け放火の疑いで、龍之介の自殺の
	半年前に鉄道自殺。
	◎生家は耕牧舎という乳牛の牧場で、父敏三はそこの経営者。
	 この地は忠臣蔵で有名な浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩の上屋敷跡
	でもある。
	◆河童忌(我鬼忌・龍之介忌)[ 7.24]好んで河童(カッパ)の絵を
	描き、小説『河童』から。
あけがらす はや
	暁烏 敏
	1877. 7.12(明治10)
	1954. 8.27(昭和29)
	◇僧侶・歌人・評論家。
あけち ひでみつ
	明智 秀満
	1537(天文 6)
	1582(天正10. 6.14)
	◇安土桃山時代の武将。初名は三宅弥平次。明智光秀の弟。
	 明智光秀の丹波平定後、丹波福知山城主。1582(天正10. 6.
	 2)早朝の本能寺急襲の先鋒となる。変後、安土城を守ってい
	たが、 6.13光秀の山城大山崎での敗戦を聞き、光秀の軍に馳
	せ参じようと城を出る。大津で羽柴秀吉の部将堀秀政の軍と遭
	遇、敗れて小船で琵琶湖を渡り、近江坂本城に脱出。翌日、攻
	囲されて、光秀の妻子を殺し城に火を放ち自刃。
	(2)生年は1557(弘治 3)。山崎合戦で敗北し,……。
	(4)生年は1537。左馬介と称。安土に敗れて大津から馬上湖水
	を渡って城に入るも、包囲され自刃。
	(16)生年は1537(天文 6)。俗説にいう左馬助光春.羽柴秀吉の
	将堀秀政の軍と大津で遭遇,敗れて小船で琵琶湖を渡り……。
あけち みつはる
	明智 光春
	⇒あけち ひでみつ(明智 秀満)
あけち みつひで
	明智 光秀
	1526(大永 6)
	1582(天正10. 6.14)
	◇安土桃山時代の武将。通称は十兵衛、法名は宗岳・宗先。丹
	波亀山城主。美濃国生れ。明智光綱または光隆の子。細川ガラ
	シヤの父、明智秀満(ヒデミツ)の兄。
	 斎藤道三(ドウサン)の死後、諸国を歴遊。越前朝倉義景に仕え
	る。さらに1558年、織田信長に仕え要職につく。1568(永禄11)
	足利義昭(ヨシアキ)を奉じて上洛する信長に従い、京都の仕置きを
	なす。
	 信長の部将滝川一益(カズマス)に従い北国を伐ち、丹波・若狭
	攻略に活躍。1571(元亀 2)近江国滋賀郡5万石と坂本城を与え
	られる。1573年、一向一揆の拠点である近江の石山・堅田を攻
	め、越前朝倉氏の滅亡後、同国の政務を行う。1575(天正 3)信
	長から九州の旧族惟任(コレトウ)の称号を与えられて日向守に任ぜ
	られ、丹波一国29万石と亀山城を与えられる。
	 1579(天正 7)丹波の八上城を攻め、城将波多野秀治と光秀の
	母を人質に和睦、秀治を安土城に送る。しかし、信長は秀治を
	殺したので、母は城中の者に殺され、信長を深く恨むに至った
	という。1580(天正 8)信長の検地に当る。
	 1581(天正 9)甲州征伐に功を立て徳川家康の接待役を命ぜら
	れる。その準備中に羽柴秀吉の中国征伐援助を命ぜられ、丹波
	亀山に赴いて挙兵する。また織田信長も秀吉の要請で中国地方
	に向かい、途中、本能寺(ホンノウジ)に宿泊する。1582(天正10. 6.
	 2)光秀は早朝の本能寺を急襲、信長を自殺せしめる(本能寺の
	変)。 6.13秀吉を山城国乙訓大山崎村に迎え討って敗られ(山
	崎の合戦)、近江の坂本城へ敗走する途中、山科の小栗栖(オグル
	ス)で土民に殺される。
	(2)1526(大永 6)。
	(4)生年は1526。
	(6)生年は1528。
	(16)生年は1528(享禄1)。
	(*)1528(大永 8,享禄元)、1558(弘治 4,永禄元)、1573(元亀 4,
	天正元)。
	◎光秀を竹槍で刺殺した土民は小栗栖の長兵衛と伝えられてい
	る。
あげまきのすけろく
	総角 助六
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸前期の侠客。京都島原の遊廓を舞台に名をあげた伊達男。
	助六の恋人である島原の遊女が、殺された助六の仇討ちをして
	有名になる。もともと総角はその遊女の源氏名(ゲンジナ)。多分
	に伝説的である。
	 歌舞伎では曾我五郎が名刀友切丸を探すため、侠客花川戸助
	六と名乗り吉原に出入りし、愛人三浦屋の揚巻(アゲマキ)に横恋
	慕する髯(ヒゲ)の意休に喧嘩を仕掛け、ついに意休を切って刀
	を取り返すという筋である。
あけら かんこう《あけら くわんかう》
	朱楽 菅江
	1740(元文 5.10.24)
	1798(寛政10.12.12)
	◇江戸中期の狂歌人・戯作者・幕臣。本名は山崎景貫、通称は
	郷助、字は道甫、俳号は貫立、別号は朱楽館・准南堂・漢江・
	芬陀利華庵。江戸四谷二十騎町生れ。御先手与力の子。
	 明和年間(1764〜1772)初代柄井川柳(カライ・センリュウ)と交わる。
	唐衣橘洲(カラゴロモ・キッシュウ)・四方赤良(ヨモノアカラ)(大田南畝)ととも
	に天明調の狂歌三大家と呼ばれる。
	 墓は江戸青山久保町の青原寺(現在東中野に移転)。
	 妻「まつ」は幕臣小宮山氏の娘で、節松嫁々(フシマツノカカ)と号し、
	狂歌に巧みであった。
	(2)生年は1740(元文 5)、没日は1800(寛政12.12.12)。節松嫁
	々(フシマツノカカ)。
	(4)生年は1740、没年は1800。
	(5)誕生日は1738(元文 3.10.24)、没日は1798(寛政10.12.12)。
	(6)生年は1740、没年は1800。節松嫁々(フシマツノカカ)。
	(11)誕生日は1740(元文 5.12.12)、没日は1800(寛政12.12.12)。
	(16)誕生日は1740(元文 5.10.24)、没日は1800(寛政12.12.12)。
	節松嫁々(フシマツカカ)。
あさい じゅうざぶろう《あさゐ じふさぶらう》
	浅井 十三郎
	1908.10.28(明治41)
	1956.10.24(昭和31)
	◇詩人。本名は関矢与三郎。
あさい すけまさ《あさゐ すけまさ》
	浅井 亮政
	生年不詳
	1542(天文11)
	◇戦国時代の武将。通称は新三郎のち備前守、号は休外。浅井
	直政の子、久政(ヒサマサ)の父、長政(ナガマサ)の祖父。
	 1516(永正13)近江に小谷(オタニ)城を築いて城主になる。1523
	(大永 3)守護京極高清(キョウゴク・タカキヨ)とその長子高延に味方し、
	次子高慶を立てようとした老臣上坂信光らを失脚させる。1525
	(大永 5)、1531(享禄 4)と六角定頼(ロッカク・サダヨリ)の北征に敗れ、
	越前の朝倉氏・美濃の斎藤氏の援助を受ける。1532年、高清の
	調停で六角氏と和議を結ぶ。1534(天文 3)京極氏に代って近江
	北半部を支配。
	(2)生年は異説1546。浅井賢政の子。略系図では直政─亮政─
	久政─長政。「浅井長政」の項、はじめ賢政と称す。
	(16)没年には異説もある.「浅井長政」の項、のち一時賢政と称
	した.
	(*)1532(享禄 5,天文元)。
あさい ちゅう《あさゐ ちゆう》
	浅井 忠
	1856(安政 3. 6.21)
	1907.12.16(明治40)
	◇明治時代の洋画家。号は黙語・木魚。江戸の佐倉藩邸生れ。
	 少年時代、佐倉藩の画家黒沼槐山に日本画を学ぶ。1875(明
	治 8)国沢新九郎の彰技堂に入る。1876(明治 9)工部大学付属
	美術学校に入学し、イタリア人アントニオ・フォンタネージの
	指導を受ける。フォンタネージの帰国後、小山正太郎・松岡寿
	らとともに退校、十一会を結成。1889(明治22)小山正太郎・松
	岡寿らと明治美術会の創設に参加。1895(明治28)、日清戦争に
	従軍、翌年第4回内国勧業博覧会に『旅順戦後の捜索』を出品。
	1898(明治31)東京美術学校教授。1900(明治33)フランスに渡り、
	1902(明治35)帰国し、京都工芸学校教授。1903(明治36)聖護院
	町に研究所を開設。1906(明治39)関西美術学院長。文展審査院
	長。
	 門下生に安井曾太郎(ソウタロウ)・梅原龍三郎・津田青楓(セイフウ)
	らがいる。
	(2)帰国後京都に移って京都高等工芸学校教授。
	(6)02年帰国後京都工芸高校の教授となり,……。
	(16)誕生日は 3.21、没日は12.19。京都工芸学校教授,……。
あさい ながまさ《あさゐ ながまさ》
	浅井 長政
	1545(天文14)
	1573(天正元. 8.27)
	◇戦国大名。幼名は新九郎、一時賢政。浅井久政(ヒサマサ)の子。
	お市の方との子は長男万福丸・長女茶々(のち淀君)・次女初
	(京極高次の室)・三女達(小督,徳川秀忠の室)・次男幾丸。近
	江国(滋賀県)小谷(オタニ)の城主。
	 はじめ織田信長の妹お市の方を娶(メト)り勢いが盛んになる。
	1568(永禄11)信長と組み六角義賢(ロッカク・ヨシカタ)を追い払い近江
	の大半を領した。信長が足利義昭を奉じて勢いが増大し、越前
	の朝倉義景(ヨシカゲ)と対立。信長が浅井家に連絡なく義景の本
	城一条谷を攻めると、不安になった長政は義景に応じて信長に
	対抗。
	 1570(元亀元. 6.)信長が浅井家征伐の援(タスケ)を徳川家康に
	求めた。長政は越前朝倉氏に援兵を求め、小谷城を出て近江姉
	川(アネガワ)に陣取り信長軍を優勢に攻めたが、朝倉軍を破った
	家康が加わり敗北、小谷城に籠城(姉川の戦)。朝倉氏・石山本
	願寺・比叡山と結んで争ったが、1571(元亀 2. 9.)比叡山を焼
	き打ちされる。しかし武田信玄が上洛のため出陣との噂(ウワサ)
	と義昭の態度により信長は征伐を中止する。
	 1573(天正元. 8.26)再び信長軍の羽柴秀吉に小谷城を攻めら
	れ、お市の方とその子らを逃がして自刃。しかし、長男万福丸
	(10歳)は、信長の命により秀吉により串刺しにされる。
あさい りょうい《あさゐ れうい》
	浅井 了意
	1612(慶長17)
	1691(元禄 4. 1. 1)
	◇江戸前期の仮名草子作者・僧侶。別号は松雲・瓢水子(ヒョウスイ
	シ)・羊岐斎、了意は法名で真宗大谷派の住職。
	 流浪の末、出家し京都二条本性寺昭儀坊(ショウギボウ)の住職に
	なり、三嶋江の本性寺を再興。唱導僧としても成功。
	 内典・外典に通じ、仏書の註釈に従事。かたわら、中国の怪
	異小説を翻案し『伽婢子(オトギボウコ)』を著す。
	 著書は『可笑記評判』・『東海道名所記』・『浮世物語』・
	『堪忍記』など。
	(2)生年は1612(慶長17)。(生)京都((異)江戸)。京都二条本性
	寺(真宗大谷派)昭儀坊の住職となる。
	(4)生年は1612頃。
	(6)生年は?。80歳前後で没。
	(16)生年は1612(慶長17)。京都の人.号は松雲・瓢水子・昭儀
	坊など.
	(?)父は摂津国三嶋江の本性寺の住職であったが、故あって宗
	門から追放。
あさいな ……《あさひな ……》
	朝比奈 ……
	⇒あさひな ……(朝比奈 ……)
あさいの そうずい《あさゐの そうずい》
	阿佐井野 宗瑞
	生年不詳
	1532
	◇室町末期の儒医。屋号は野遠屋。和泉国堺の人。阿佐井野婦
	人医と称され、婦人科の治療にすぐれていた。
	 1528年、明(ミン)
	の『医書大全』を翻刻し、医書出版にも尽力する。
	◎死後の1933(昭和 8)清家本『論語集解』刊行されるなど、阿
	佐井野版と呼ばれる。
	(2)生年は1532(天文元)。阿佐井野婦人科と称された。1528(享
	禄 1)明(中国)の熊均の著作「医書大全」を翻刻し、日本最初の
	医書を刊行した。
	(16)生年は1532(享禄 4):誤。阿佐井野婦人医と称せられた.
	1528(享禄 1)年明の能宗立の「医書大全」を復刻公刊し,わが国
	医書板刻の嚆矢といわれる.
	(19)生年は1531。
	(*)1532(享禄 5,天文元)。
あさおか おきさだ
	朝岡 興禎
	1801
	1856(安政 3. 4.27)
	◇江戸後期の美術史家。初名は信義、通称は三之助・三次郎。
	 狩野栄信の子で画法を父に学ぶ。1820(文政 3)朝岡興邦の嗣
	子となり興禎と改名。将軍徳川家慶(イエヨシ)に仕え、1853(嘉永
	 6)隠居。48巻52冊に及ぶ画家辞典『古画備考』を著す。
	(*)1801(寛政13,享和元)。
あさか ごんさい
	安積 艮斎
	1791(寛政 3. 3. 2)
	1860(万延元.11.21)
	◇江戸後期の儒学者(朱子学)。名は重信(シゲノブ)、字は恩順、
	通称は祐助、別号は見山楼。神官安藤親重の子。
	 幼くして二本松藩儒今泉徳輔に学ぶ。十七歳で江戸に出て佐
	藤一斎の学僕となる。1813(文化10)昌平黌で林述斎に学ぶ。
	1814(文化11)神田駿河台に私塾見山楼を開設。1831(天保 2)詩
	文『艮斎文略』を著す。1836(天保 7)二本松藩儒。1843(天保
	14)二本松藩校敬学館の教授。1850(嘉永 3)幕府儒員に登用さ
	れ昌平黌の教授。
	(2)(系)神官安藤親重の子。(生)陸奥国安積郡郡山。字は思順
	……。
	(4)岩代の人。
	(6)奥州郡山の人。
	(15)字は思順.奥州二本松藩安積に生れる.
	(16)安藤親重の子。岩代二本松の人。字は恩順…….
あさか しげのぶ
	安積 重信
	⇒あさか ごんさい(安積 艮斎)
あさか たんぱく
	安積 澹泊
	1656(明暦 2)
	1737(元文 2.12.10)
	◇江戸中期の儒学者(朱子学)。名は覚、字は子先、通称は
	覚兵衛、号は澹泊・老圃・老圃常山など。水戸藩儒。常陸国水
	戸の人。父は水戸藩士安積定吉、祖父正信以来水戸藩に仕える。
	 朱舜水について学ぶ。1683(天和 3)彰考館に入り、藩主徳川
	光圀の『大日本史』の編修に努める。1693(元禄 6)彰考館総裁。
	 水戸藩史学の基礎を築く。
	 著書は『大日本史賛藪』など。
	(2)生年は1655(明暦 1)。
	(4)生年は1656。
	(6)生年は1656。
	(16)生年は1656(明暦 2)。
	◆墓は常磐共有墓地。
	◎『水戸黄門漫遊記』で黄門のお供をした「格さん」のモデルと
	される。
あさかわ かんいち
	朝河 貫一
	1873(明治 6)
	1948(昭和23)
	◇歴史学者。福島県生れ。東京専門学校卒業。
	 1901(明治34)エール大学教授、1942(昭和17)名誉教授。
	 日本と欧州の荘園を比較・研究。
あさかわ ぜんあん
	朝川 善庵
	1781(天明元. 4. 8)
	1849(嘉永 2. 2. 7)
	◇江戸後期の儒学者(折衷学派)。名は鼎、字は五鼎、号は善庵
	・学古塾。片山兼山(カタヤマ・ケンザン)の末子。父を幼時に失い、母
	の再婚先の医者朝川默翁に養われる。
	 十二歳で山本北山に折衷学を学ぶ。1798(寛政10)から京坂・
	九州各地を遊歴。幕府の招きで下田に漂着した清国船と筆談応
	対する。
あさくら きくお
	朝倉 菊雄
	⇒しまき けんさく(島木 健作)
[1]あさくら たかかげ
	朝倉 孝景
	1493
	1548(天文17. 3.22)
	◇戦国時代の武将。通称は弾正左衛門。越前一乗谷城主。貞景
	の子、義景(ヨシカゲ)の父。
	 10代将軍足利義稙(ヨシタネ)を扶けて近江の佐々木定頼を討ち、
	12代将軍義晴(ヨシハル)を扶けて三好氏討つ。後奈良(ゴナラ)天皇の
	践祚(センソ)に当っては大礼の資一万疋を献上。また京都の兵乱
	を避けて寄寓した清原宣賢(ノブタカ)・飛鳥井雅綱らを庇護し、
	これに儒学を学ぶ。
	(16)1493(明応元):誤。
	(*)1492(延徳 4,明応元)、1493(明応 2)。
[2]あさくら たかかげ
	朝倉 孝景
	⇒あさくら としかげ(朝倉 敏景)
あさくら としかげ
	朝倉 敏景
	1428(正長元)
	1481(文明13. 7.26)
	◇戦国時代の武将。幼名は小太郎、敏景のち政景・孝景(タカカゲ)、
	通称は孫右衛門・弾正左衛門尉。戒名は英林宗雄。本姓は日下
	部(クサカベ)氏。越前国坂井郡黒丸城の国人領主。守護斯波(シバ)
	氏の三老臣の一人。
	 斯波氏の内紛に乗じ、斯波氏の守護代甲斐常治(カイ・ツネハル)と
	結び勢力を伸ばす。
	 応仁の乱ではじめ西軍に属したが、細川勝元から越前の守護
	職の約束を得て東軍に寝返り、1471(文明 3)守護職となり、足
	羽川上流一乗谷に築城、家臣を集めて本拠地とする。次いで甲
	斐常治を倒して越前を収める。
	 本願寺の蓮如に1471(文明 3)吉崎道場を開かせる。晩年、戦
	国大名分国法の先駆となる家訓「朝倉敏景十七箇条」(「朝倉孝景
	条々」とも)を制定し、国人・地侍の塁館建造を禁止し、一乗谷
	への移住などを規定した。
	(2)「朝倉孝景」の項。没年は1481(文明13)。(系)朝倉為景の子。
	(4)没年は1481。
	(6)「朝倉氏」の項。没年は1548。
	(16)没年は1481(文明13)。家景の子。
あさくら のりかげ
	朝倉 教景
	1474(文明 6)
	1555(弘治元. 9. 8)
	◇室町後期・戦国時代の武将。名は小太郎、号は入道後宗滴。
	朝倉敏景(トシカゲ)の子。
	 朝倉氏の家督争いで、惣領朝倉貞景・義景(ヨシカゲ)を補佐する。
	1503(文亀 3)越前の一向一揆を鎮める。1527(大永 7)12代将軍
	足利義晴(ヨシハル)をたすけ阿波公方足利義維を破る。上洛し細川
	澄元と争う。1552(天文21)加賀に兵を進める。加賀一揆との戦
	いの陣中で死亡。
あさくら ふみお《あさくら ふみを》
	朝倉 文夫
	1883. 3. 1(明治16)
	1964. 4.18(昭和39)
	◇明治〜昭和期の彫刻家。大分県生れ。
	 1907(明治40)東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業。母校の
	教授。朝倉彫塑塾を主宰。芸術院会員。1948(昭和23)文化勲章
	を受章。
	◎アトリエが1967(昭和42)朝倉彫塑館として一般公開された。
あさくら よしかげ
	朝倉 義景
	1533(天文 2)
	1573(天正元. 8.20)
	◇戦国時代の大名。初名は延景、通称は左衛門督。[1]孝景の
	子。
	 1566(永禄 9)松永久秀に逐われた足利義昭を越前国一乗谷に
	迎え、幕府回復を企てる。しかし1568(永禄11. 7.)義昭は織田
	信長の許に去り、擁立されて入洛。
	 義景は上洛を拒否し信長と対立、浅井長政と結んで対抗する。
	1570(元亀元. 6.)姉川の戦で信長軍の徳川家康に大敗し一時講
	和する。
	 のち信長の越前侵攻に敗れ、一族の朝倉景鏡の謀叛により自
	殺し、朝倉氏は滅亡する。
	(2)生年は1533(天文 2)。幼名孫二郎。
	(4)生年は1530。
	(6)「朝倉氏」の項。生年は1533。
	(16)生年は1533(天文 2)。幼名は孫次郎.
あさだ ごうりゅう《あさだ がうりふ》
	麻田 剛立
	1734(享保19)
	1799(寛政11. 5.22)
	◇江戸中期の天文学者・医者。名は妥彰、本姓は綾部、号は
	正庵・璋庵、通称は庄五郎。豊後国速見郡杵築(キツキ)生れ。
	 1763(宝暦13. 9.)の日食を予言して世に知られる。家は代々
	杵築の藩医で、1767(明和 4)藩の侍医となる。
	1770年ころ、天文・暦学を研究するため脱藩、大坂に出て名を
	麻田剛立と改め、医師をしながら観測・研究。
	 1795(寛政 7)幕府に召されるが、弟子の高橋至時(ヨシトキ)・間
	(ハザマ)重富を推挙。
	 墓は大阪市天王寺区の浄春寺。
	(4)綾部絅斎の次男。
	(6)綾部絅斎(アヤベ・ケイサイ)の四男。
あさだ そうはく
	浅田 宗伯
	1813(文化10)
	1894(明治27. 3.16)
	◇幕末・明治時代の漢方医。名は直民のち惟常、字は識此、号
	は栗園。信濃国(長野県)筑摩郡栗林村の人。せきどめの「浅田
	飴」を創製。
	 高遠藩で医学を修める。京都を経て江戸に出、剃髪して宗伯
	と称する。1865年、フランス公使の病気を治療し、幕府より賞
	を受け、大奥の侍医となり法眼に叙せられる。維新後は一時隠
	居し、のち東宮侍医。1879(明治12)漢方医家を糾合して温知社
	を組織し、「温知医談」を発行。
	(2)生年の異説は1815。
	(6)生年は1813。
	(*)1865(元治 2,慶応元)。
あさぬま いねじろう《あさぬま いねじらう》
	浅沼 稲次郎
	1898(明治31)
	1960(昭和35.10.12)
	◇社会運動家・政治家。東京都三宅島生れ。
	 早稲田大学在学中から無産運動に参加。三宅正一・稲村隆一
	らと農民組合運動を始める。1925(大正14)普通選挙法が成立す
	ると、農民労働党を結成、書記長になるが即日禁止。1926(大
	正15)労働農民党結成に参加。党の分裂後は日本労農党・日本
	大衆党・全国大衆党・全国労農党に属する。1933(昭和 8)東京
	市議会議員。1936(昭和11)・1937(昭和12)と衆院議員に当選。
	 戦後、日本社会党代議士。1948(昭和23)日本社会党書記長。
	1960(昭和35)中央執行委員長となり、日米安全保証条約改定の
	反対闘争を指導。日比谷公会堂の三党主立会演説会で演説中に
	右翼少年山口二矢に刺殺される。
	(2)早大卒業。
	(4)早大卒。
	(16)早大中退。
あさの じゅんいち
	浅野 純一
	1902. 6.20(明治35)
	1976. 3.28(昭和51)
	◇歌人。本名は喜一。
あさの そういちろう《あさの そういちらう》
	浅野 総一郎(初代)
	1848(嘉永元. 3.10)
	1930(昭和 5.11. 9)
	◇明治・大正期の実業家。幼名は泰治郎・惣一郎。越中(富山
	県)出身。
	 医師の家に生れたが、二度養子に行き、1871(明治 4)上京し
	砂糖水売り・薪炭商などを営む。
	 横浜のガス事業創業による廃物に着眼、そのコークスを官営
	深川セメント工場に売り込み、王子製紙総裁の渋沢栄一に見出
	される。渋沢の後援で1881(明治14)同工場を無償で借り受け、
	1883(明治16)白煉瓦製造所とともに払い下げを受けて浅野工場
	を設立、発展の基礎をつくる。
	 1898(明治31)渋沢・安田善次郎などの出資を得て浅野セメン
	ト合資会社(現:日本セメント)を設立、1912年、株式会社とし、
	1915(大正 4)北海道セメント、1923(大正12)浅野スレート・日
	本カーリット、1924(大正13)木津川セメント、1927(昭和 2)浅
	野超高級セメントなどを設立または合併。
	 1918(大正 7)浅野同族会社を設立、セメント・造船・海運・
	鉱業・築港埋立・電力などの経営に乗り出し、浅野財閥を築く。
	(*)1912(明治45,大正元)。
あさの だいがく
	浅野 大学
	⇒あさの ながひろ(浅野 長広)
あさの たくみのかみ
	浅野 内匠頭
	⇒あさの ながのり(浅野 長矩)
あさの たもつ
	浅野 保
	1887. 8. 1(明治20)
	1955. 8.30(昭和30)
	◇歌人。
あさの ながあきら
	浅野 長晟
	1586(天正14)
	1632(寛永 9. 9. 3)
	◇江戸初期の武将。幼名は岩松、通称は右兵衛佐・但馬守。若
	狭国小浜生れ。広島藩主。浅野長政の子、幸長(ヨシナガ)の弟。
	妻は徳川家康の娘振姫。
	 幼時から豊臣秀吉に近侍し、秀吉の没後、家康に仕える。
	1613(慶長18)兄幸長が没し、家督を継ぎ紀伊国を領する。大坂
	夏の陣では塙直之(バン・ナオユキ)を討ち取る。1619(元和 5)福島正
	則が禁を犯して広島城を修築し所領を没収され、その安芸及び
	備後半国を拝領し広島城に移封される。
	(2)没年は1617(元和 3)。
	(16)没年は1632(寛永 9)。
あさの ながたけ
	浅野 長武
	1895. 7. 5(明治28)
	1969. 1. 3(昭和44)
	◇美術史家。
あさの ながのり
	浅野 長矩
	1667(寛文 7)
	1701(元禄14. 3.14)
	◇江戸前期の大名。幼名は又一郎、通称は内匠頭(タクミノカミ)。父
	浅野采女正(ウネメノショウ)長友(ナガトモ)の嫡子で、1675(延宝 3)家督
	を継ぎ、播磨国赤穂(アコウ)藩主(5万3500石)。
	 兵学者山鹿素行(ヤマガ・ソコウ)に教えを受ける。
	 1701(元禄14. 2.)歳賀の勅使(大納言柳原資廉<スケカド>)接待
	役にあたり義礼の指導を典礼に詳しい高家(コウケ)筆頭の吉良上
	野介(キラ・コウズケノスケ)義央(ヨシナカ)に仰いだとき、賄賂を贈らなかっ
	たことから指導を受けられず、侮辱されて 3.14江戸城中(殿中
	松廊下)で義央に刃傷(ニンジョウ)に及び、居あわせた梶川与惣兵
	衛(ヨソベエ)に後ろから羽交い締めで制止される。騒ぎは側用人
	柳沢吉保を通じて将軍綱吉(ツナヨシ)に知らされ、田村右京大夫(ウ
	キョウノダイブ)建顕(タテアキ)の邸(芝愛宕下<シバアタゴシタ>)に預けられ、
	同日庭先で切腹を命ぜられた。一方、義央は御役御免のみであっ
	た。
	 辞世の句は「風誘ふ 花よりも尚(ナホ) 我は又(マタ)/春の名残
	(ナゴリ)を 如何(イカ)にとやせん」。
	◎長矩の妻は備後国三次(ミヨシ)城主浅野因幡守長治(ナガハル)の次
	女阿久里(アグリ)。⇒ようぜいいん(瑤泉院)
	 三次浅野家は赤穂浅野家と同じ芸州浅野家の支藩・同族であ
	る。
	◎浅野大学長広(ナガヒロ)は長矩の実弟で、長矩に子がないため
	長矩の養嗣子。
	 『仮名手本忠臣蔵』では「塩谷(エンヤ)判官」。
	(2)生年は1665(寛文 5)。
	(4)生年は1667。
	(6)生年は1667。
	(16)生年は1665(寛文 5)。
	◎吉良の浅野いじめの原因は、新式の製塩技術を吉良に教えな
	かったことに対する報復という説がある。
あさの ながひろ
	浅野 長広
	1670(寛文10)
	1734(享保19)
	◇江戸中期の幕臣。通称は大学(ダイガク)。赤穂二代目城主浅野
	長友(ナガトモ)の二男。浅野長矩(ナガノリ)の実弟で養嗣子。
	 1694(元禄 7)兄長矩より赤穂藩領のうち3,000石の分知を受
	けて独立し、幕府に召し出され交替寄合(コウタイヨリアイ)となる。し
	かし、長矩に子がなかったため養嗣子となる。
	 1701(元禄14. 3.14)長矩が江戸城中で刃傷(ニンジョウ)事件を起
	したので、翌日閉門させられる。翌年七月、浅野家の宗家松平
	安芸守綱長(ツナトモ)に預けられる。
	 1709(宝永 6)将軍綱吉が没して家宣(イエノブ)が継ぎ、 8.21長
	広は江戸に召還される。翌年 9.16、安房国500石を与えられ、
	交替寄合に復帰する。
	 墓は高輪(タカナワ)泉岳寺(センガクジ)。
あさの ながまさ
	浅野 長政
	1544(天文13)
	1611(慶長16. 4. 7)
	◇安土桃山時代の大名。幼名は長吉、のち弥左衛門・弥兵衛。
	尾張国安井重継の子、朝野長勝の養子、幸長(ヨシナガ)・長晟(ヨシ
	アキラ)の父。豊臣秀吉と相婿。代々織田家に仕える。
	 1583(天正11)近江国大津・坂本の2城とともに2万300石を領
	する。1585(天正13)秀吉の信任が厚く、五奉行首座となる。
	1587(天正15)若狭国1国を与えられ、小浜城主。1588(天正16)
	従五位下、弾正少弼となり、太閤検地に活躍。1592年、文禄の
	役に軍監として朝鮮に渡る。1593(文禄 2)甲斐に移封され21万
	5千石を領し、また秀吉の渡鮮を諌止する。秀吉の没後、石田
	三成と不和になり、家督を幸長に譲り、武蔵国府に隠居する。
	関ヶ原の戦では幸長とともに徳川秀忠に従い西上。1606(慶長
	11)養老料として常陸国の真壁・筑波両郡5万石を、さらに
	1609(慶長14)近江国神崎郡5千石を与えられる。晩年は江戸に
	住む。
	(2)生年は1544(天文13)。'87若狭国1国を与えられ、小浜城主。
	(4)生年は1547。
	(6)生年は1547。1587年若狭小浜の城主,……。
	(16)生年は1544(天文13)。1585(天正13)小浜城主となり、……。
	(*)1592(天正20,文禄元)。
あさの ばいどう
	浅野 梅堂
	1816(文化13)
	1880(明治13)
	◇幕末・維新期の旗本・学者・文人画家。名は長祚、字は胤卿、
	号は梅堂・池香・蒋潭。江戸の人。播州赤穂浅野家の支族。禄
	高3,500石。
	 浦賀奉行のち、1852(嘉永 5)京都町奉行。1867(慶応 3)致仕
	して江戸に帰り、書画・学問に専心。
	(2)(名)長祚,字は胤卿,別号を池香・蒋潭。京都町奉行。
	(16)名は長.字は胤.号は梅堂・池香など.京都所司代などを
	歴任したが,…….
あさの ひょうきょ
	浅野 馮虚
	1874. 8.13(明治 7)
	1937. 2. 3(昭和12)
	◇翻訳家・心霊研究家。本名は和三郎。
あさの よしなが
	浅野 幸長
	1576(天正 4)
	1613(慶長18. 8.25)
	◇安土桃山・江戸初期の大名。幼名は長満・長慶、通称は
	左京大夫・紀伊守。浅野長政の長子、長晟(ナガアキラ)の兄。和歌
	山城主。
	 幼時から豊臣秀吉に近侍し、1590(天正18)小田原征伐に加わ
	る。1592年、文禄の役では秀吉に従って肥前名護屋に出陣、つ
	いで父とともに朝鮮に渡り、慶尚南道西生浦に築城。1595(文
	禄 4)帰朝。石田三成の讒言で能登に流されるが、1596年赦さ
	れて、翌年再び渡鮮。明(ミン)の大軍に襲撃され蔚山城に籠城、
	加藤清正の援軍を得るが苦戦し、1598(慶長 3)さらに援軍を得
	て脱出、秀吉の死で帰朝。関ヶ原の戦では東軍の先鋒として戦
	功をたて、紀伊国37万6千余石を与えられる。
	(*)1592(天正20,文禄元)、1596(文禄 5,慶長元)。
あさはら ためより
	浅原 為頼
	生年不詳
	1290(正応 3. 3.10)
	◇鎌倉後期の武士。名は八郎、甲斐源氏、小笠原氏の一族。
	 群盗の罪で誅せられることになったので、1290(正応 3. 3.)
	子の光頼・為継とともに伏見天皇を殺害しようと寝殿に闖入(チ
	ンニュウ)、天皇は女装して難をのがれ、失敗した為頼父子は討手
	の兵に囲まれ紫宸殿に自刃。この事件は両統迭立(テツリツ)問題に
	関連し亀山天皇(大覚寺統)の依頼によるといわれ、鎌倉幕府は
	さらに持明院統に接近する。
あさはら ろくろう
	浅原 六郎
	1895. 2.28(明治28)
	1977.10.22(昭和52)
	◇小説家。また鏡村の筆名で童謡・少女小説を書いた。長野県
	生れ。1919(大正 8)早稲田大学英文科卒業。
	(1)誕生日は 2.28。
	(2)浅原 六朗。誕生日記載なし。
	(3)誕生日は 2.22。
	(5)誕生日は 2.28。
	(8)誕生日は 2.22。
	(11)誕生日は 2.28。
	(13)淺原 六朗。誕生日は 2.22。
あさひ ぎょくざん
	旭 玉山
	1843(天保14)
	1923(大正12)
	◇明治時代の工芸家。幼名は富三郎。江戸浅草生れ。
	 はじめ僧籍にあったが、24歳で牙彫(ガチョウ)師となる。髑髏
	の彫刻を得意とする。のち東京美術学校教授・皇室技芸員。
あさひ へいご
	朝日 平吾
	1890(明治23)
	1921. 9.28(大正10)
	◇国粋主義者。
	 安田善次郎を刺殺し、その場で自殺。
あさひこ しんのう《あさひこ しんわう》
	朝彦 親王
	1824(文政 7. 1.28)
	1891.10.25(明治24)
	◇江戸幕末・明治維新期の宮廷政治家。久邇宮(クニノミヤ)の第1
	代。初名は熊千代・富宮、青蓮院宮・中川宮(ナカガワノミヤ)・賀陽
	宮(カヤノミヤ)などとも称する、法号は尊融法親王。伏見宮邦家親
	王の第4子、久邇宮邦彦(クニヨシ)・東久邇稔彦(ヒガシクニ・ナルヒコ)・
	賀陽宮邦憲王・梨本宮守正王(4男)の父。京都生れ。
	 1836(天保 7)仁孝(ニンコウ)天皇の養子。1837(天保 8. 8.)親王
	宣下して成憲と改名。
	 1838(天保 9.閏4.)得度。1852(嘉永 5)青蓮院に入室、尊融
	法親王と改名して天台座主となり、粟田宮とも称する。
	 1863(文久 3)還俗して中川宮朝彦親王。翌年、賀陽宮と改称。
	 公武合体派として活躍し、1868(慶応 4. 8.)反政府運動の嫌
	疑により親王の宣旨を奪われる。
	 明治維新後、広島に閑居し、1872(明治 5)再び宮を称するこ
	とが許され、1875. 5.(明治 8)一家を立てて久邇宮と改称。
	 伊勢神宮祭主となって神儀の復興につとめる。
	◎「ともよし(朝彦)」と読む場合もある。
あさひな さぶろう《あさひな ふざらう》
	朝比奈 義秀
	⇒あさひな よしひで(朝比奈 義秀)
あさひな そうげん
	朝比奈 宗源
	1891(明治24)
	1979(昭和54)
	◇臨済宗の僧・円覚寺派管長。号は別峰。静岡県生れ。
あさひな たかし
	朝比奈 隆
	1908. 7. 9(明治41)
	2001.12.29(平成13)
	◇指揮者。東京生れ。
	 旧制の東京高等学校中学部でバイオリンを始める。
	 京都帝国大学法学部在学中、京都帝国大学交響楽団に参加。
	 1931(昭和 6)阪神急行(現:阪急電鉄)に入社。2年後、京都
	帝国大学文学部に再入学し、一方で大阪室内楽協会を結成。
	 1939(昭和14)指揮者としてデビュー。
	 1940(昭和15)新交響楽団(現:NHK交響楽団)を指揮。
	 太平洋戦争中、上海・満州でハルビン・新京交響楽団などの
	指揮者を務める。
	 1947(昭和22)関西交響楽団(現:大阪フィル交響楽団)を設立。
	 1949(昭和24)関西オペラグループ(現:関西歌劇団)を組織。
	 1989(平成元)文化功労者。
	 1994(平成 6)文化勲章、受章。
あさひな ちせん
	朝比奈 知泉
	1862(文久 2. 4.25)
	1939. 5.22(昭和14)
	◇明治・大正期の新聞記者。別号は珂水懶漁・珂南(カナン)・
	禄堂(ロクドウ)。水戸藩士の家に生れる。
	 水戸師範卒業後、郵便報知新聞記者を経て、東京大学法科入
	学、1887(明治20)中退。在学中から「東京新報」の主筆として政
	治評論を行う。1892(明治25)伊東巳代治(ミヨジ)の「東京日日新
	聞」の主筆になる。条約改正・遼東半島還附問題などで政府側
	を代弁。
	 新聞記者として陸羯南(クガ・カツナン)・徳富蘇峰(ソホウ)と並び称
	される。
	(2)没年は1939(昭和14)。
	(4)朝比奈 知泉(あさいな ちせん,…ヒナ)。没年は1939。
	(5)没年は1939. 5.22(昭和14)。
	(8)没年は1939. 5.22(昭和14)。
	(11)没年は1939. 5.22(昭和14)。
	(16)没年は1939(昭和14)。
	(?)1938(昭和13)。
あさひな やすひこ
	朝比奈 泰彦
	1881(明治14)
	1975(昭和50)
	◇有機化学者。東京生れ。
	 1905(明治38)東京大学薬学科卒業。1909(明治42)ヨーロッパ
	留学。
	 帰国後、東京大学教授。漢薬の化学成分を研究。1923(大正
	12)学士院賞、受賞。1930(昭和 5)ビタカンファーを発見。
	 地衣類その他各種植物の成分を研究し、分類学的研究に業績
	をあげる。1943(昭和18)文化勲章、受章。
	 著書は『地衣研究』など。
あさひな よしひで
	朝比奈 義秀
	1176(安元 2)
	没年不詳
	◇鎌倉前期の武将。通称は三郎。和田義盛の3男、母は巴御前、
	和田常盛(ツネモリ)の弟。
	 勇猛で豪力無双と伝えられる。
	 1213(建暦 3. 5.)父義盛が北条氏を攻めて一族が滅亡(和田
	合戦)した時、奮戦したが安房に逃れ、以後不明。
	◎伝説が多く、その武勇は小説・演劇・舞踊などの題材にされ
	ている。
あさぶき えいじ
	朝吹 英二
	1849(嘉永 2)
	1918(大正 7)
	◇実業家。豊前の人。大隈系の黒幕。
	 慶応義塾に学び、三菱商会支配人・貿易商会取締役。
	 中上川彦次郎(妻の兄)の招きで、1891(明治24)鐘淵紡績専務。
	のち三井の工業部専務理事・三井合名参事。
あさぶき とみこ
	朝吹 登水子
	1917. 2.27(大正 6)
	205. 9. 2(平成17)
	◇翻訳家・作家。本名は朝吹登水(トミ)。東京出身。
	 パリに留学。
	 1950(昭和25)デザイナーを目指して再度渡仏。
	 サガン、ボーボワールなどの作品を翻訳。
	 2000(平成12)レジオン・ドヌール勲章を受章。
あさみ けいさい
	浅見 絅斎
	1652(慶安 5. 8.13)
	1711(正徳元.12. 1)
	◇江戸中期の儒学者(朱子学派)。初名は順良のち安正、通称は
	重次郎、号は絅斎・望楠楼。近江国高島郡太田村の人。
	 はじめ京都で医者をしていたが、浅見氏を継承、28歳で山崎
	闇斎の門に入る。崎門(キモン)三傑の一人といわれたが、師の神
	道説に服せず破門される。南朝正統論を述べる。中国の忠孝義
	烈の士の文章を集めた『靖献遺言(セイケンイゲン)』を著し、維新の
	志士に大きな影響を与える。
	◎浅見絅斎(ケイサイ)・三宅尚斎(ショウサイ)とともに崎門(キモン)三傑の
	一人。
あさみ ふかし
	浅見 淵
	1899. 6.24(明治32)
	1973. 3.28(昭和48)
	◇小説家・評論家。学生時代の筆名は浅見夕煙。神戸市生れ。
	1926(大正15)早稲田大学国文科卒業。
あさやま いりんあん
	朝山 意林庵
	1589(天正17)
	1664(寛文 4. 9.21)
	◇江戸初期の儒学者(朱子学派)。法名は素心、字は藤丸。京都
	の人。朝山久綱(入道怡斎)の子、朝山日乗(ニチジョウ)の孫。
	 八歳のとき孤児になり、五山の僧に学び出家。1609(慶長14)
	朝鮮来聘使李文長について朱子学を修める。1610(慶長15)より
	三年間、豊前の細川家に仕える。寛永年間(1624〜1644)徳川忠
	長に仕え駿河に赴く。のち京都に帰り、1653(承応 2)後光明天
	皇の招きを受け中庸を講ずる。
あさやま にちじょう
	朝山 日乗
	生年不詳
	1577(天正 5. 9.)
	◇戦国・安土桃山時代の僧侶(日蓮宗)。俗名は善茂。
	 出家する際、後奈良天皇より朝山日乗の名を賜る。1569(永
	禄12)織田信長の面前でイエズス会宣教師ルイス・フロイスと
	修道士伊留満ロレンソとの宗論に敗れる。
	(16)正しくは日乗朝山(チョウザン)で,朝山は姓ではない.
あさやま ぼんとうあん
	朝山 梵燈庵
	1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)
	1427(応永24)
	◇室町前期の連歌師。俗姓は朝山、俗名は小次郎師綱(モロツナ)。
	 出雲国(現:島根県)多文郷惣領地頭で、三代将軍足利義満(ヨシ
	ミツ)の同朋衆(ドウボウシュウ)として仕える。
	 和歌を冷泉為秀に、連歌を二条良基に学ぶ。
	 のち失脚。
	 40歳過ぎに出家して西行に私淑し、筑紫・奥州と諸方を流浪。
	 晩年、陸奥の松島にいるところを召還されて帰京。
	(?)あさやま ぼんとう(朝山 梵燈)。
	(2)あさやま ぼんとうあん(朝山 梵燈庵)。没年は1448(文安
	 5)。本名記載なし。
	(16)あさやま ぼんとうあん(朝山 梵燈庵)。没年は1427(応
	永24)。本名は朝山修理大夫師綱という.
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