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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6014.03

                 人   名   辞   典    《あは》     編集:獨  澄旻

-------- あは --------------------------------------------------
あぶ てんぷう
	阿武 天風
	1882. 9.(明治15)
	没年不詳
	◇編集者・小説家。本名は阿武信一。
あぶつ に
	阿仏 尼
	生年不詳
	1283(弘安 6)
	◇鎌倉中期の女流歌人。
	 貞応・元仁・嘉禄のころ(1222〜1226)の生れで、父母は不明
	だが平度繁(ノリシゲ)に養われる。安嘉門院(アンカモンイン)に仕え、女
	房名を安嘉門院越前・安嘉門院右衛門佐(エモンノスケ)・安嘉門院四
	条など。
	 藤原為家の側室となり、冷泉為相(レイゼイ・タメスケ)・藤原為守(タ
	メモリ)を生む。1277(建治 3)為相の領地相続問題訴訟のため鎌倉
	に下った折り、紀行『十六夜日記(イザヨイ・ニッキ)』を著す。為家
	の出家後に出家し、嵯峨禅尼・北林禅尼などとも呼ばれた。
あべ いそお《あべ いそを》
	阿部 磯雄
	1865(元治 2. 2. 4)
	1949. 2.10(昭和24)
	◇評論家・社会主義運動家・政治家。筑前国生れ。
	 1884(明治17)同志社卒業。1894(明治27)ハートフォード神学
	校卒業。キリスト教社会主義者となる。
	 1901(明治34)社会民主党の創立に参加。1905(明治38)「新紀
	元」を創刊。大逆事件後、引退。
	 のち復帰して、1926年社会民衆党委員長。1928(昭和 3)第1
	回普通選挙に当選。1934(昭和 9)社会大衆党党首。1940(昭和
	15)勤労国民党を組織するが、禁止され引退。
	 学生野球の父といわれる。
	(2)1865(慶応元):誤。
	(4)1865。昭和七年社会大衆党党首。
	(6)1865。34年社会大衆党の党首。
	(5)1865(慶応元. 2. 4):誤。
	(8)1865(慶応元. 2. 4):誤。
	(11)1865(慶応元. 2. 4):誤。
	(13)1865(元治 2. 2.):正。
	(*)1926(大正15,昭和元)。
あべ こんごう
	阿部 金剛
	1900. 6.26(明治33)
	1968.11.20(昭和43)
	◇画家。
あべ しげたか
	阿部 重孝
	1890(明治23)
	1939(昭和14)
	◇教育学者。新潟県出身。東京大学教授。
あべ しずえ
	阿部 静枝
	1899. 2.28(明治32)
	1974. 8.31(昭和49)
	◇歌人・社会評論家。本名は志つえ、旧姓は二木(フタギ)。宮城
	県生れ。東京女子高等師範学校国文科卒業。
	(1)本名は志つえ。
	(3)本名は志つえ。
	(5)本名は志づえ。
	(8)本名は志つえ。
	(11)本名は志つえ。
あべ しょうおう《あべ しやうをう》
	阿部 将翁
	1650(慶安 3)
	1753(宝暦 3)
	◇江戸中期の本草学者。名は輝任。盛岡の人。
	 延宝(1673〜1681)年間に清国福建に漂着、本草学・医学を学
	ぶ。帰国後、幕府の採薬使。
あべ しょうじん
	阿部 (「竹」冠+「肖」:補助5017)人
	1900. 1.16(明治33)
	1968. 8. 9(昭和43)
	◇俳人。本名は亨。
あべ じろう《あべ じらう》
	阿部 次郎
	1883. 8.27(明治16)
	1959.10.20(昭和34)
	◇哲学者・評論家。阿部六郎の兄。山形県飽海(アクミ)郡上郷(カミ
	ゴウ)村生れ。
	 東京大学哲学科卒業。夏目漱石に師事。
	 評論集『三太郎日記』が有名。
	(13)没日は10.21。
あべ しんのすけ
	阿部 真之助
	1884. 3.29(明治17)
	1964. 7. 9(昭和39)
	◇評論家。埼玉県生れ。東京大学社会学科卒業。
	 満州日日新聞・東京日日新聞・大阪毎日新聞などの新聞記者
	として活躍。1944(昭和19)毎日新聞を退社。
	 のち各種政府委員・NHK会長などを歴任。
あべ すえお
	阿倍 季雄
	1880. 9. 7(明治13)
	1962.12.19(昭和37)
	◇児童文学者・口演童話家。号は村羊。
あべ ただあき
	阿部 忠秋
	1602(慶長 7)
	1675(延宝 3)
	◇江戸初期の老中。武蔵国忍(オシ)城主。
	 徳川家綱を補佐、由井正雪の乱・明暦の江戸大火などに善処。
あべ ともじ
	阿部 知二
	1903. 6.26(明治36)
	1973. 4.23(昭和48)
	◇小説家・評論家・英文学者。岡山県英田(アイダ)郡湯郷(ユノゴウ)
	村生れ。1927(昭和 2)東京帝国大学英文科卒業。
	 太平洋戦争中、報道班員としてジャワへ行く。
	(13)岡山県勝田郡湯郷村の教師の家に生れ、……。
あべ のぶゆき
	阿部 信行
	1875(明治 8)
	1953(昭和28)
	◇陸軍軍人・政治家。金沢生れ。陸軍大学校卒業。陸軍大将。
	 1929(昭和 4)浜口雄幸(オサチ)内閣の宇垣陸軍大臣の下に陸軍
	次官、一時陸軍大臣代理。陸軍に擁立され、1939(昭和14)組閣、
	総理大臣兼外務大臣。
	 のち中国特派全権大使。1944. 7.24(昭和19)第9代朝鮮総督
	就任、1945. 9.28(昭和20)解任。
	 首相就任:1939. 8.30(昭和14)、総辞職:1940. 1.16(昭和15)。
あべ まさつぐ
	阿部 正次
	1569(永禄12)
	1647(正保 4)
	◇江戸前期の幕府大坂城代。永井尚政(ナオマサ)の伯父。
あべ まさひろ
	阿部 正弘
	1819(文政 2.10.)
	1857(安政 4)
	◇江戸幕末の老中・備後福山藩主。幼名は剛蔵のち主計、通称
	は伊勢守。老中阿部正精の6男。
	 1836(天保 7)18歳で阿部家を相続、伊勢守備後福山10万石。
	1838(天保 9)奏者番。1840(天保11)寺社奉行。1843(天保14)25
	歳で老中。水野忠邦の失脚後、幕政を担(ニナ)い天保の苛政を除
	く。
	 1854年、ペリーと日米和親条約を締結。
	 大船建造の解禁・洋学所の開設・海軍操練などの政策を行う。
	(*)1854(嘉永 7,安政元)。
あべ みどりじょ
	阿部 みどり女
	1886.10.26(明治19)
	1980. 9.10(昭和55)
	◇俳人。札幌生れ。北星女学校、病気のため中退。
	(5)本名は「ミツ」。
	(8)本名は「みつ」。
あべ よししげ
	安倍 能成
	1883.12.23(明治16)
	1966. 6. 7(昭和41)
	◇教育者・評論家・哲学者。愛媛県松山市小唐人町(コトウジンマチ)
	生れ。
	 1901(明治34)県立松山中学校卒業。第一高等学校在学中、
	1903. 5(明治36)友人藤村操(ミサオ)が日光華厳の滝に投身自殺し
	て衝撃を受け、思想・芸術へ傾倒。1909(明治42)東京大学哲学
	科卒業。
	 京城大学教授・1940(昭和15)第一高等学校校長。
	 戦後、1946(昭和21)幣原喜重郎内閣の文部大臣。のち学習院
	長。
	 夏目漱石の門下。
	 著書は『西洋古代中世哲学史』・『西洋近世哲学史』・『西
	洋道徳思想史』・『岩波茂雄伝』など。
	◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。
あべ ろくろう
	阿部 六郎
	1904. 4.12(明治37)
	1957.11. 7(昭和32)
	◇ドイツ文学者・文芸評論家。山形市生れ。京都大学独文科卒
	業。阿部次郎の弟。
	(5)没日は11. 7。
	(8)没日は 1. 7。
	(11)没日は11. 7。
あべのうちまろ
	阿倍 内麻呂
	⇒あべのくらはしまろ(阿倍 倉梯麻呂)
あべのくらはしまろ
	阿倍 倉梯麻呂
	生年不詳
	 649(大化 5. 3.17)
	◇大和時代・孝徳天皇の左大臣。名は内麻呂・大鳥大臣。阿倍
	小足媛(オタラシヒメ)(有馬皇子の母)の父。中大兄皇子にも娘を嫁が
	せている。
あべのさだとう《あべのさだたふ》
	安倍 貞任
	1019(寛仁 3)
	1062(康平 5. 6.17)
	◇平安後期の豪族。厨川(クリヤガワ)次郎と称する。頼良(のち頼
	時)の次男、宗任(ムネトウ)の兄。北上川流域に勢力を張り、蝦夷
	の酋長の子孫といわれる。
	 朝命に服せず、前九年の役(1056〜62)に宗任とともに厨川柵
	で源頼義の軍を破る。
	 1062(康平 5)出羽の豪族清原氏の援助を受けた頼義は、はじ
	め叔父良照の守備する小松柵を攻略、衣川関・瀬原柵、さらに
	厨川・嫗戸(ウバト)柵を攻め、柵に火を放たれて貞任は戦死。
	(2)(名)厨河次郎貞任。
	(4)厨川次郎。
	(6)厨川二郎。
あべのせいめい
	安倍 晴明
	 921(延喜21)
	1005(寛弘 2. 9.26)
	◇平安中期の陰陽家・天文博士。本姓は阿倍、阿倍益材の子、
	土御門(ツチミカド)家の祖。讃岐の人。
	 賀茂忠行・保憲父子から陰陽道・天文道を学ぶ。
	 天文博士・左京権大夫・播磨守などを歴任。
	 著書は『金烏玉兎集』・『占事略決』など。
	 式神(シキガミ,シキシン)(一種の精霊)を駆使し、天文を解して事変
	を予知したと『今昔物語集』・『古今著聞集』などに伝えられ
	る。
	◎天文の変化により 986(寛和 2)の花山天皇の退位を知ったと
	いう。
	◎生誕地は讃岐のほかに大阪・茨城などがある。
	◆京都府京都市上京区の堀川一条の晴明神社の祭神。神社は住
	居跡という。
	◆墓は京都府京都市嵯峨の渡月橋そばの晴明墓所とされる。
あべのなかまろ
	阿倍 仲麻呂(安倍 仲麻呂)
	 701
	 770
	◇奈良時代の文人。
	  716(霊亀 2)留学生に選ばれ、翌年入唐。名を朝衡と改め、
	玄宗皇帝に仕える。 753(天平勝宝 5)帰国しようとして安南に
	漂着。在唐50余年、長安で客死。
	  760<上元元>(天平宝字 4)から2年間、安南都護府の長官と
	なる。
	(4)生年は 700頃。
	(6)生年は 701。
	(*) 701[文武 5](大宝元)、 770(神護景雲 4,宝亀元)。
あべのひらふ
	阿倍 比羅夫
	生年不詳
	没年不詳
	◇飛鳥時代の将軍。
	 斉明天皇の 658〜 660年、日本海沿岸を北進して蝦夷(エゾ)
	を平定、渡島(ワタリノシマ)(北海道南部か津軽半島)に渡り粛慎(ミシハ
	セ)を征伐。
	 天智天皇のとき、百済を助けて新羅と戦い、将軍さらに大宰
	帥(ダザイノソツ)となる。
	(4)あべのひらぶ。
	(67)あべのひらふ。
あべのむねとう《あべのむねたふ》
	安倍 宗任
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安後期の豪族。鳥海三郎と称する。頼良(のち頼時)の子、
	貞任(サダトウ)の弟。
	 朝命に服せず、前九年の役(1056〜62)に貞任とともに厨川柵
	で源頼義の軍を破る。
	 1062(康平 5)兄貞任敗死の後、衣川(コロモガワ)で敗れ源頼義に
	降り、一旦京都に連行、1064(康平 7)伊予に流される。のち太
	宰府に移され出家。
あべのよりとき
	安倍 頼時
	生年不詳
	1057(天喜 5. 7.26)
	◇平安中期の豪族。本姓は亘理(ワタリ)氏、安倍姓は賜姓といわ
	れる。はじめは頼良・頼長・頼義、通称は安大夫。忠頼の孫、
	忠良の子、貞任(ヨリトウ)・宗任(ムネトウ)の父。
	 奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貴・紫波・岩手)の郡司。
	 朝命に服せず、陸奥守藤原登任(ナリトウ)を破り、朝廷より自立。
	このため陸奥守兼鎮守府将軍に任じられた源頼義・義家父子に
	攻められるが、大赦があり罪を免ぜられて一旦帰順。
	 1056(天喜 4)貞任への冤罪から再び子の貞任・宗任らと叛く
	(前九年の役:1056〜62)。頼義に応じた安倍富忠を自ら説得、
	富忠の伏兵と戦い流れ矢にあたり、鳥海柵に帰り没する。
	(2)1057(天喜 5)9月頼義・義家父子に鳥海の柵で討たれた。
	(16)没日は 7/26。
あぼ しんのう《あぼ しんわう》
	阿保 親王
	 792(延暦11)
	 842(承和 9)
	◇平城(ヘイゼイ)天皇の第一皇子・在原(アリワラ)氏の祖。在原行平
	(ユキヒラ)・業平(ナリヒラ)の父。
	  810(弘仁元)薬子(クスコ)の変に連座して大宰権帥に左遷され
	るが、のち許されて帰京。
	  826(天長 3)上奏して、子の行平・業平などに在原姓を授か
	る。
	◎文武・音楽の名人。
あまかす せきすけ
	甘粕 石助
	1906. 4.23(明治39)
	1975. 8. 9(昭和50)
	◇哲学者。本名は見田石助。
あまかす まさひこ
	甘粕 正彦
	1891. 1.16(明治24)
	1945. 8.18(昭和20)
	◇陸軍憲兵大尉。山形県仙台市北三番町生れ。
	 1905(明治38)名古屋幼年学校入学。1910(明治43)陸軍士官学
	校入学、1912(明治45)第24期生として卒業。1912.12.(大正元)
	少尉に任官。1915(大正 4)陸軍戸山学校入学、ここで膝関節炎
	症になり退役を願い出るが、勧められて憲兵になる。1918. 8.
	(大正 7)朝鮮京畿道楊州憲兵分隊長。1920(大正 9)憲兵練習所
	に入所、1921(大正10)卒業、大尉となり千葉県市川憲兵分隊長。
	1922. 1.(大正11)東京市渋谷憲兵分隊長。1923. 8.27(大正12)
	東京市麹町憲兵分隊長を兼任。1923(大正12)関東大震災での大
	杉栄事件により軍法会議にかけられ、12月十年の刑を受けたが、
	1926.10. 9(大正15)三年で出獄。
	 1927(昭和 2)服部ミネと結婚し、7月フランスに渡る。
	 1929. 2.(昭和 4)帰国し、7月満洲に渡り、満洲事変に加わ
	り政界の黒幕となる。
	 1932(昭和 7)満洲国建国と同時に満洲国民政部警務司長に就
	任。1934(昭和 9)甘粕の母志げの旧姓内藤から名付けられた
	「内藤機関」を開設。1937(昭和12)協和会中央本部総務部長。同
	年、満洲国建国の功により日本政府から勲四等旭日章、満洲国
	政府から勲二等景雲章が授与。1939.11. 1(昭和14)満洲映画協
	会の理事長に就任。
	 敗戦とともに新京で服毒自殺。
	(+)『甘粕大尉』中公文庫		  昭和54年 5月10日初版
	 著者:角田房子,発行所:中央公論社  昭和61年 2月15日七版
	(2)1912(明治45)歩兵少尉となったが、……。
	 '31満州(中国東北部)にわたり、……。
	◎中野学校の初代校長であった秋草俊中佐(終戦時は少将)は、
	甘粕の妹の夫。
あまくさ しろう《あまくさ しらう》
	天草 四郎
	1621(元和 7)
	1638(寛永15. 2.18)
	◇江戸前期の島原の乱の指導者。本名は益田四郎時貞(トキサダ)。
	洗礼名はジェロニモ(ヒエロニモ)またはフランシスコ。小西行
	長(ユキナガ)の旧臣益田甚兵衛好次(ヨシツグ)の子という。
	 1637(寛永14.10.25)肥前国の領民が蜂起して代官を血祭りに
	上げ、対岸の肥後国天草島の農民も呼応して大規模な一揆とな
	る(島原の乱)。島原・富岡城を攻めるが落とせず、島原半島の
	南端の古城、原城に籠城。12.20幕府軍板倉重昌(シゲマサ)ら3万
	余の第1次攻撃。幕府が援軍を送ったことを知った重昌は恥じ
	て、援軍到着前の1638(寛永15. 1. 1)第2次攻撃して銃弾にあ
	たり戦死。 1.14老中松平伊豆守信綱(ノブツナ)が率いる援軍が到
	着。 2.17第3次攻撃。翌日、四郎が深手を負って倒れていた
	ところを熊本藩士陣野佐左衛門に首を斬られる。首は長崎に送
	られ、晒(サラ)し首となる。
	◎母は教名マルタ、姉(福)は教名レシーナ。
	◎原城跡の一遇に北村西望作の銅像がある。
	◎乱後、島原城主松倉勝家は所領没収のうえ処刑。唐津城主寺
	沢堅高も減封処分を受け、のちに自殺。
	◎富岡城は天草郡苓北町富岡。
あまくさ ときさだ
	天草 時貞
	⇒あまくさ しろう(天草 四郎)
あまこ かつひさ
	尼子 勝久
	1553(天文22)
	1578(天正 6. 7. 3)
	◇戦国時代の武将。毛利氏に滅ぼされた尼子氏を1569(永禄12)
	出雲を回復して再興したが、のちに毛利氏の攻囲をうけて自刃。
あまこ つねひさ
	尼子 経久
	1458(長禄 2.11.20)
	1541(天文10.11.13)
	◇室町後期・戦国時代の武将。尼子清定の子。
あましょうぐん
	尼将軍
	⇒ほうじょう まさこ(北条 政子)
あまた ぐあん
	天田 愚庵
	1854(嘉永 7. 7.20)
	1904. 1.17(明治37)
	◇歌人。幼名は久五郎、一時清水次郎長の養子となり山本五郎
	(明治15)、のち剃髪して愚庵・鉄眼(テツゲン)。磐城(イワキ)国平生
	れ。戊辰戦争で父母妹が行方不明となり、所在を尋ねて流浪生
	活をする。1887(明治20)34歳で出家、鉄眼と称する。
	(1)天田 愚庵(あまだ ぐあん)、1854(嘉永 7):正、幼名は
	五郎。
	(2)天田 愚庵(あまだ ぐあん)、1854(安政元):誤。
	(3)天田 愚庵(あまた ぐあん)、1854(安政元):誤。
	(5)天田 愚庵(あまた ぐあん)、1854(安政元):誤、幼名は
	久五郎。
	(8)天田 愚庵(あまた ぐあん)、1854(安政元):誤、幼名は
	久五郎。
	(11)天田 愚庵(あまた ぐあん)、1854(安政元):誤、幼名は
	五郎。
	(13)天田 愚庵(あまた ぐあん)、1854(安政元):誤、名は五
	郎。
あまの さだかげ
	天野 信景
	1651(慶安 4)
	1733(享保18. 9. 8)
	◇江戸中期の国学者。通称は治部、字は子顕、号は白華。信幸
	の子。尾張名古屋藩士。
	(26)生年は1663(寛文 3)。
	(?)生年は1651(慶安 4)。
あまの そうほ
	天野 宗歩
	1816(文化13)
	1856(安政 3)
	◇江戸幕末の将棋棋士。江戸生れ。
	 将棋家の生れでないため、七段でおわるが、後世「棋聖」と称
	される。
あまの ためゆき
	天野 為之
	1859(安政 6)
	1938(昭和13)
	◇経済学者・教育者。唐津藩医の子として江戸に生れる。
	 東京帝国大学卒業。
	 1882(明治15)大隈重信(オオクマ・シゲノブ)らと東京専門学校(現:
	早稲田大学)を創立。衆議院議員。
	 1892〜1917(明治25〜大正 6)東京専門学校で実業教育に従事。
	1898(明治31)から10年間、東洋経済新報を主宰。
	 早稲田大学学長。
	(6)生年は1859/60。
	◎福沢諭吉・田口卯吉(ウキチ)とともに明治の三大経済学者と称
	される。
あまの ていゆう《あまの ていゐう》
	天野 貞祐
	1884. 9.30(明治17)
	1980. 3. 6(昭和55)
	◇哲学者・教育者。神奈川県生れ。
	 京都帝国大学哲学科卒業、専攻はカント哲学。京都帝国大学
	教授。
	 第二次世界大戦後、甲南高校校長・第一高等学校校長・第3
	次吉田茂内閣の文部大臣、日本育英会会長、独協大学学長。
	 著書は翻訳『純粋理性批判』、『道理の感覚』など。
	(3)天野 貞祐(あまの ていすけ)。
	(5)天野 貞祐(あまの ていゆう)。
	(8)天野 貞祐(あまの ていゆう)。
	(11)天野 貞祐(あまの ていゆう)。
	(13)天野 貞祐(あまの ていゆう)。
あまの とうりん《あまの たうりん》
	天野 桃隣
	1639(寛永16)
	1719(享保 4)
	◇江戸中期の俳人・伊賀上野藤堂家の臣。
	 江戸で芭蕉に学ぶ。
	 著書は『陵奥鵆(ムツチドリ)』など。
あまの とおかげ《あまの とほかげ》
	天野 遠景
	生年不祥
	没年不祥
	◇鎌倉時代の武将。伊豆天野の住人。
	 源頼朝の挙兵に参じ、石橋山の戦いに奮戦。
	 西海に平氏を追討、鎮西奉行に任ぜられる。
あまのや りへえ《あまのや りへゑ》
	天野屋 利兵衛
	1662(寛文 2)
	1727(享保12)
	◇江戸中期の大坂の商人。大坂北組惣年寄。
	 赤穂藩主浅野家に出入りし、のち赤穂浪士のために武器を調
	達。自首して追放となる。
	◆東京都港区高輪2丁目の泉岳寺に「義商天野屋利兵衛浮図(フト)」
	がある。
	◎『仮名手本忠臣蔵』では天川屋義平の役名で登場。
あみの きく
	網野 菊
	1900. 1.16(明治33)
	1978. 5.15(昭和53)
	◇小説家。戸籍上の誕生日は 1.26。東京麻布(アザブ)生れ。
	1920. 3.(大正 9)日本女子大学英文科卒業。1930(昭和 5)京都
	大学哲学科出身の満洲医大教授と結婚、1936(昭和11)離婚、以
	来独身。
あみの よしひこ
	網野 善彦
	1928. 1.22(昭和 3)
	2004. 2.27(平成16)
	◇日本史学者。山梨県生れ。
	 1950(昭和25)東京大学文学部卒業。
	 1980(昭和55)神奈川大学短大部教授、のち神奈川大学経済学
	部特任教授。
	 著書は『日本社会の歴史』・『日本中世の非農業民と天皇』
	など。
あめのみや けいじろう《あめのみや けいじらう》
	雨宮 敬次郎
	1846(弘化 3)
	1911(明治44)
	◇明治期の実業家。俗称は天敬。甲斐の人。
	 初め、甲州物産の江戸行商。のち横浜で生糸投機・銀相場に
	手を出す。1880(明治13)東京深川に製粉工場を設立して成功。
	 若尾逸平(イッペイ)・小野金六とともに甲州財閥三人男と呼ば
	れる。
あめのもり ほうしゅう《あめのもり はうしう》
	雨森 芳洲
	1666(寛文 6)
	1755(宝暦 5)
	◇江戸中期の朱子学者。名は誠清。京都の人。
	 木下順庵の門人。韓語・華語に堪能で、順庵の推挙で対馬藩
	に仕え、日韓外交に当る。
	(4)生年は1666。
	(6)生年は1668。
あゆかい かいえん
	鮎貝 槐園
	1864(元治元. 1. 4)
	1946. 2.24(昭和21)
	◇歌人。号は薊の家・松の家。陸前国生れ。東京外語学校卒業。
	1894(明治27)京城(ソウル)に乙未(イツビ)義塾を創設、ながく朝鮮
	の実業界にあり、引き揚げの途次博多病院で死去。落合直文の
	弟。
	(1)没日は 2.14、本名は盛影。
	(3)没日は 2.24、本名は房之進。
	(5)没日は 2.24、本名は房之進。
	(8)没日は 2.14、本名は房之進盛影。
	(11)没日は 2.24、本名は房之進。
あゆかわ ぎすけ《あゆかは ぎすけ》
	鮎川 義介
	⇒あゆかわ よしすけ(鮎川 義介)
あゆかわ のぶお《あゆかは のぶを》
	鮎川 信夫
	1920. 8.23(大正 9)
	1986.10.17(昭和61)
	◇詩人・評論家。本名は上村(カミムラ)隆一。東京生れ。早稲田大
	学英文科、学徒出陣のため三年で中退。スマトラから傷病兵と
	して帰還。
あゆかわ よしすけ《あゆかは よしすけ》
	鮎川 義介
	1880.11. 6(明治13)
	1967. 2.13(昭和42)
	◇大正・昭和期の実業家。山口県生れ。久原房之助(クハラ・ヒサノスケ)
	の義兄。
	 1903(明治36)東京大学工科機械科卒業。
	 大卒を隠して職工として芝浦製作所に入社、2年後アメリカ
	に渡りグルト・カプラー社で鋳物の技術を身につけて帰国。
	 1910(明治43)井上馨の援助で戸畑鋳物株式会社を創立。1920
	(大正 9)妹婿の久原房之助から久原産業を受け継ぎ、1928(昭
	和 8)日本産業(日産)を設立、日本鉱業・日立製作所・日本化
	学などを傘下に収め、重化学工業の多角経営に努める。軍需産
	業と結び付きながら新興財閥日産コンツェルンを形成。1937.
	12.(昭和12)満州重工業開発(満業)を設立し満州に進出。1943
	(昭和18)貴族院勅選議員。
	 太平洋戦争後、戦犯として巣鴨拘置所に収容され、公職追放
	となる。1951(昭和26)釈放後ただちに中小企業助成会長となり、
	1953(昭和28)参議院議員に当選。1956(昭和31)日本中小企業政
	治連盟を結成総裁に就任、これを政治圧力団体として1957.11.
	(昭和32)中小企業団体組織法を成立させ、日本農林漁業政治連
	盟の総裁にも就任。1959(昭和34)次男の鮎川金次郎の選挙違反
	容疑でともに参議院議員を辞任。
	◎岸信介(ノブスケ)・松岡洋右(ヨウスケ)とともに「満洲の三スケ」と
	称される(ともに山口県生れ)。
	(2)あゆかわ よしすけ。(系)久原房之助の義兄。
	(2)あいかわ よしすけ。義弟久原房之助に代って…。
	(6)あゆかわ よしすけ。1927年義兄久原房之助(クハラフサノスケ)の
	…。
	(16)あゆかわ よしすけ。1928(昭和 3)年義弟久原房之助より
	…。
	(21)あいかわ よしすけ。妹婿の久原房之助(クハラフサノスケ)から…。
あら まさひと
	荒 正人
	1913. 1. 1(大正 2)
	1979. 6. 9(昭和54)
	◇評論家。別名は赤木俊。福島県相馬郡鹿島町生れ。1938(昭
	和13)東京大学英文科卒業。
	 戦後、中野重治(シゲハル)と「政治と文学」を論争する。
あらい あきら
	新井 洸
	1883.10. 9(明治16)
	1925.10.23(大正14)
	◇歌人。本名は幸太郎、別号は雨泉。東京生れ。
	(?)新井 洸(あらい こう)。			????
	(5)新井 洸(あらい あきら)。
	(8)新井 洸(あらい あきら)。
	(11)新井 洸(あらい あきら)。
あらい おうすい
	新井 奥邃
	1846(弘化 3. 5. 5)
	1922. 6.16(大正11)
	◇宗教家(無所属のキリスト教)・教育者。通称は常之進。
あらい かんぽう
	新井 寛方
	1878. 8.15(明治11)
	1945. 4.21(昭和20)
	◇画家(仏画)。本名は寛十郎。アジャンタの壁画・法隆寺金堂
	の壁画を模写。
あらい きいち
	新井 紀一
	1890. 2.22(明治23)
	1966. 3.11(昭和41)
	◇小説家。群馬県吉井町生れ。
	(1)没日は 3.11。
	(3)没日は 3.13。
	(5)没日は 3.13。
	(8)没日は 3.11。
	(11)没日は 3.13。
あらい せいふう
	新井 声風
	1897.12. 3(明治30)
	1972. 8.27(昭和47)
	◇俳人。本名は義武。
あらい ちゅう《あらゐ ちゆう》
	荒井 注
	1928. 7.30(昭和 3)
	2000. 2. 9(平成12)
	◇コメディアン・俳優。本名は荒井安雄。東京市生れ。
	 二松学者大学文学部国文科、卒業。
	 1964(昭和39)いかりや長介のコミックバンド「ザ・ドリフタ
	ーズ」結成に参加。
	 1974(昭和49)「ザ・ドリフターズ」から離脱し、俳優となる。
あらい てつ
	荒井 徹
	1899. 2.15(明治32)
	1944. 4.12(昭和19)
	◇詩人。本名は内野健児。
あらい はくせき《あらゐ はくせき》
	新井 白石
	1657(明暦 3. 2.11)
	1725(享保10. 5.19)
	◇江戸中期の朱子学者・漢詩人・政治家。幼名は伝蔵(傳藏)(デ
	ンゾウ)、名は君美(キンミ)、字は済美、通称は与五郎、のち勘解由
	(カゲユ)、号は白石・紫陽・天爵堂。父は久留里藩(2万2千石)の
	目付役新井正済(正濟)(マサナリ)。従五位下(明治に至り正四位を
	贈られる)、筑後守(チクゴノカミ)。
	 明暦大火の直後、江戸神田の藩主土屋利直(トシナオ)の仮屋で生
	れる。土屋家仕え、のち利直が亡くなり子の頼直(ヨリナオ)が継ぐ
	と父子ともに辞職。
	 江戸に出て浪人。大老堀田正俊(下総古河城主)に仕えるが2
	年で正俊が稲葉正休に斬られて亡くなる。30歳のころ木下順庵
	に朱子学を学び、35歳で堀田家を致仕。のち順庵の推挙で1693
	(元禄 6)甲府藩主徳川綱豊に仕える。
	 1709(宝永 6)綱豊が六代将軍家宣(イエノブ)になり、側用人間
	部詮房(マナベ・アキフサ)とともに幕政を補佐。武蔵国埼玉郡に500石
	を賜り、のち相摸国に500石を加贈。生類憐の令など将軍綱吉
	(ツナヨシ)の時の弊政の廃止・朝鮮使節の簡略化・幣制の改革・外
	国貿易の制限・閑院宮(カンインノミヤ)家の創立などを行う。家宣の
	死後、詮房とともに七代将軍家継(イエツグ)を補佐。家継の死後、
	1716(享保元)吉宗が将軍となるとともに致仕。
	 著書は自伝『折たく柴の記』・『西洋紀聞』・『読史余論』
	など。
	(2)(名)君美(キンミ),通称勘解由(カゲユ),白石は号。
	(4)名は君美(キミヨシ)。
	(6)名は君美(キンミ),通称は勘解由(カゲユ)。白石は号。
	(5)名乗りは君美(キンミ)、……。
	◆墓は東京都中野区上高田1−2−9の高徳寺。
あらかわ とよぞう《あらかは とよざう》
	荒川 豊蔵
	1894(明治27)
	1985(昭和60)
	◇陶芸家。岐阜県多治見生れ。
	 宮永東山・北大路魯山人のもとで作陶。
	 1930(昭和 5)岐阜県可児<カニ>郡大萱(オオカヤ)で、桃山時代の志
	野を焼いた古窯跡を発見。
	古志野・瀬戸黒・黄瀬戸の再現に努力。
	 1955(昭和30)人間国宝に指定。1971(昭和46)文化勲章を受賞。
	◎多治見高田に豊蔵が築いた、水月窯と刻まれた石碑がある。
あらき いくこ
	荒木 郁子
	1888. 3. 3(明治21)
	1943. 2.26(昭和18)
	◇小説家。
あらき かんぽ《あらき くわんぼ》
	荒木 寛畝
	1831(天保 2)
	1915(大正 4)
	◇日本画家。旧姓は田中、通称は光三郎。文晁派の荒木寛快の
	養子、荒木十畝(ジッポ)の養父。帝室技芸員。
	 一時、川上冬崖に油絵を習う。
あらき こどう
	荒木 古童
	1823(文政 6)
	1908(明治41)
	◇尺八家。
	 幼少より尺八を学び、虚無僧(コムソウ)の修業中に豊田古童に師
	事。
	 1871(明治 4)虚無僧が属する禅宗の一派普化宗(フケシュウ)の廃
	止後、琴古流(キンコリュウ)の尺八をを中興する。
あらき さだお
	荒木 貞夫
	1877(明治10)
	1966(昭和41)
	◇陸軍大将。東京出身。
	 犬飼・斎藤内閣の陸軍大臣。満州事変を指導。皇道派の指導
	者として陸軍少壮将校の革新運動に関係、統制派と対立する。
	 太平洋戦争後、極東国際軍事裁判で終身刑、1955(昭和30)病
	気のため仮出所。
あらき じっぽ
	荒木 十畝
	1872(明治 5)
	1944(昭和19)
	◇日本画家。本名は悌二郎。荒木寛畝(カンポ)の養嗣子。長崎生
	れ。芸術院会員。
あらき たかし
	荒木 巍
	1905.10. 4(明治38)
	1950. 6. 4(昭和25)
	◇小説家。本名は下村是隆、初期の筆名は下村恭助。東京に僧
	侶の子として生れる。1932(昭和 7)東京大学支那文学科卒業。
	結核により死去。
	(5)誕生日は10. 4。
	(8)誕生日は10. 6。
	(11)誕生日は10. 4。
	(13)誕生日は10.。
あらき のぶお
	荒木 暢夫
	1893. 3.28(明治26)
	1966. 2.27(昭和41)
	◇歌人。本名は喬。
あらき またえもん《あらき またゑもん》
	荒木 又右衛門
	1599(慶長 4. 1.)
	1638(寛永15. 8.28)
	◇江戸前期の剣客。伊賀生れ。
	 柳生十兵衛に就いて剣法を極め、大和郡山藩の剣法指南を勤
	める。
	 1634(寛永11.11. 7)妻の弟岡山藩士渡辺数馬の仇討ちに助太
	刀し、数馬の父(一説に弟)源太夫の仇河合又五郎を伊賀国上野
	鍵屋(カギヤ)の辻に討つ(伊賀越仇討)。この仇討ちはのちに歌舞
	伎や講談で三十六人切りと脚色される。
	 1638(寛永15)鳥取藩主池田家に仕官し、同年鳥取で没。
	(4)生年は1601。
	(6)生年は1599。
あらき むらしげ
	荒木 村重
	1535(天文 4)
	1586(天正14)
	◇安土桃山時代の武将。利休七哲の一人。岩佐勝以(カツモチ)の父。
	 初め足利義昭に仕え、1573年織田信長に属し摂津一国を与え
	られ、本願寺攻撃に当る。のち叛いて毛利と結び、1578(天正
	 6)信長に伊丹城を追われ流浪。
	 のち剃髪し筆庵道薫と称して茶道に通じ、羽柴(豊臣)秀吉に
	拾われて近侍。
	(4)生年不詳。
	(6)生年は1535。
	(*)1573(元亀 4,天正元)。
あらき よしお
	荒木 良雄
	1890. 9. 5(明治23)
	1969. 9.29(昭和44)
	◇国文学者。
あらきだ すえほぎ
	荒木田 末寿
	1764
	1828(文政11. 8.16)
	◇江戸後期の神宮学者。通称は玄蕃のち大学、号は桜屋翁・
	楽斎。
	(*)1764(宝暦14,明和元)。
あらきだ つねただ
	荒木田 経雅
	1742(寛保 2)
	1805(文化 2)
	◇江戸後期の神宮学者。通称は経雅のち豊後。父は中川経行。
あらきだ ひさおゆ
	荒木田 久老
	1746(延享 3)
	1804(文化元. 8.14)
	◇江戸後期の国学者・伊勢内宮の権禰宜。号は五十槻園(イツキノソ
	ノ)。度会(ワタライ)正身の子。
	 賀茂真淵に入門、宣長派と対立する。
	(26)号は五十槻園(イツキソノ)。橋村正身(マサノブ)の二男。
あらきだ もりたけ
	荒木田 守武
	1473(文明 5)
	1549(天文18. 8. 8)
	◇室町末期の俳人・連歌師・伊勢内宮(ナイクウ)の禰宣(ネギ)(神官)。
	伊勢内宮三禰宜荒木田(薗田)守秀の9男。
	 15歳で禰宜となる。69歳で一禰宜に上る。
	 山崎宗鑑とともに、その作品は俳諧が連歌から独立する機運
	を起している。
	◆守武忌[旧暦 8. 8]。
あらきだ れいじょ
	荒木田 麗女
	1732(享保17. 3.10)
	1806(文化 3. 1.12)
	◇江戸後期の物語作者。名は隆のち麗、麗子・麗女と自署。伊
	勢国山田中之郷町に内宮地下権禰宜(ナイクウジゲゴンネギ)荒木田武
	遠(タケトオ)の娘として生れる。
	 13歳で叔父の外宮御師(ゲクウオシ)荒木田武遇(タケハル)の養女とな
	る。22歳で慶滋(ヨシシゲ)家雅と結婚。
	(4)荒木田 麗(あらきだ れい)。慶徳家雅の妻。
	(5)荒木田 麗女(あらきだ れいじょ)。
	(11)荒木田 麗女(あらきだ れいじょ)。
あらし かんじゅうろう《あらし くわんじゆうらう》
	嵐 寛寿郎
	1903(明治36)
	1980(昭和55)
	◇映画俳優。本名は高橋照市、照一とも、愛称は「あらかん」。
	京都生れ。
	 『鞍馬天狗』などの時代劇で活躍。
	(?)1902生。
あらし きちさぶろう《あらし きちさぶらう》
	嵐 吉三郎
	1769(明和 6)
	1821(文政 4)
	◇歌舞伎俳優。屋号は岡島屋、俳名は璃寛(リカン)。
[1]あらし さんえもん《あらし さんゑもん》
	嵐 三右衛門(初世)
	1635(寛永12)
	1690(元禄 3)
	◇江戸前期の歌舞伎俳優。本名は西崎三右衛門。摂津西宮の人。
	 大坂で活躍。
[2]あらし さんえもん《あらし さんゑもん》
	嵐 三右衛門(二世)
	1661
	1701(元禄14)
	◇歌舞伎俳優。初世の子。
	(*)1661(万治 4,寛文元)。
[3]あらし さんえもん《あらし さんゑもん》
	嵐 三右衛門(三世)
	1697(元禄10)
	1754(宝暦 4)
	◇歌舞伎俳優。二世の子。
あらはた かんそん
	荒畑 寒村
	1887. 8.14(明治20)
	1981. 3. 6(昭和56)
	◇社会主義者・小説家・評論家。本名は勝三。神奈川県横浜永
	楽町の横浜遊廓内の仕出屋に生れる。1904(明治37)社会主義協
	会入会。1908(明治41)赤旗事件で入獄。1922(大正11)日本共産
	党創立に加わり、1928(昭和 3)党を除名。戦後社会党から立候
	補し当選、1949(昭和24)脱党。
	(13)誕生日は 8. 5。
ありが ちょうはく《ありが ちやうはく》
	有賀 長伯
	1661
	1737(元文 2)
	◇江戸中期の歌人。京都の人。平間長雅の門人。
	(*)1661(万治 4,寛文元)。
ありが ながお《ありが ながを》
	有賀 長雄
	1860(万延元.10. 1)
	1921. 6.17(大正10)
	◇法学者・社会学者・文学者。有賀長伯の子孫。摂津国生れ。
	東京大学哲学科卒業。
	 東京大学講師。著書は『国法学』・『国家学』など。
	◎坪内逍遥(ショウヨウ)と東京大学の同期で『当世書生気質(カタギ)』
	の宮賀匡(タダス)のモデル。
ありさか なりあきら
	有坂 成章
	1852(嘉永 5)
	1915(大正 4)
	◇陸軍軍人・技術者。陸軍中将。周防国岩国生れ。
	 1898(明治31)三十一年式速射野砲(有坂砲、7.5センチ)を考
	案。
ありさか ひでよ
	有坂 秀世
	1908(明治41)
	1952(昭和27)
	◇国語学者。広島県呉生れ。東京大学言語学科卒業。
	 日本語・中国語の音韻史を研究、業績をあげる。
	 著書は『音韻論』・『国語音韻史の研究』・『上代音韻攷』
	など。
ありしま いくま
	有島 生馬
	1882.11.26(明治15)
	1974. 9.15(昭和49)
	◇画家・小説家。本名は壬生馬(ミブマ)、号は雨東生・十月鳥山
	・十月亭。横浜の税関官舎に生れる。東京外語学校イタリア語
	科卒業。有島武郎(タケオ)の次弟、里見(「弓」偏+「享」:補助2877)
	(トン)(四男)の実兄。
	◎没後、鎌倉の稲村ヶ崎にある旧宅が長野県信州新町に移築さ
	れ、有島生馬記念館となっている。
ありしま たけお《ありしま たけを》
	有島 武郎
	1878. 3. 4(明治11)
	1923. 6. 9(大正12)
	◇大正時代の白樺派の小説家・評論家。行正(ユキマサ)と名乗り、
	号は泉谷(センコク)・由井ヶ浜兵六・勁隼生(ケイジュンセイ。東京小石
	川水道町生れ。薩摩士族出身で当時大蔵省官吏の有島武の長男、
	有島生馬(イクマ)(次男)・里見(「弓」偏+「享」:補助2877)(トン)(四男)
	の実兄。
	 学習院を経て、札幌農業専門学校(現:北海道大学)卒業。在
	学中に内村鑑三に師事し、キリスト教に入信。アメリカ留学中
	にホイットマンらの影響を受け、社会主義に傾き、帰国後に棄
	教。
	 1910(明治43)雑誌「白樺」創刊に参加し同人。人道主義的作風
	で活躍。ブルジョア出身の自己との矛盾に苦しみ、財産放棄を
	行い、所有地を開放して共産農園を建設。1922(大正11)評論
	『宣言一つ』で階級闘争の激化に対する自己の限界を表明。
	 婦人記者で愛人の波多野秋子と軽井沢で心中。
	 著書は評論『惜みなく愛は奪ふ』、小説『宣言』・『或る女』
	・『生れ出づる悩み』・『カインの末裔』(1917<大正 6>)など。
	◎北海道虻田郡(アブタグン)ニセコ町(チョウ)に有島記念館がある。
ありすがわのみや たかひとしんのう
	《ありすがはのみや たかひとしんわう》
	有栖川宮 幟仁親王
	⇒たかひと しんのう(幟仁 親王)
ありすがわのみや たるひとしんのう
	《ありすがはのみや たるひとしんわう》
	有栖川宮 熾仁親王
	⇒たるひと しんのう(熾仁 親王)
ありはらのえんび
	在原 艶美
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸中期の戯作者。在原艶美・業平艶美・成平榻見とも称す
	る。
	 江戸本所業平橋畔に住む。
ありはらのしげはる
	在原 滋春
	生年不詳
	没年不詳
	◇平安前期の歌人。在次君と呼ばれる。在原業平(ナリヒラ)の次子。
ありはらのなりひら
	在原 業平
	 825(天長 2)
	 880(元慶 4. 5.28)
	◇平安初期の歌人。別称は在五(ザイゴ)中将・在中将。平城天
	皇の皇子阿保(アボ)親王の第5子、母は恒武天皇の皇女伊都(イト)
	内親王。在原行平(ユキヒラ)の弟、在原棟梁・滋春(シゲハル)の父。
	六歌仙人・三十六歌仙の一人。
	  826(天長 3)兄行平らと在原姓を賜る。
	 右近衛権中将を経て、 879(元慶 3)蔵人頭、従四位上。文徳
	天皇の皇子惟喬親王に近侍。
	 容姿端麗で『伊勢物語』の主人公と目される。
	◆業平忌[旧暦 5.28]。
	◎『伊勢物語』九段:「名にしおはゝいさことゝはん宮古鳥/
	わかおもふ人はありやなしや」
	◎「今(イマ)業平」のように用いられ近世まで典型的美男子とされ
	た。
ありはらのゆきひら
	在原 行平
	 818(弘仁 9)
	 893(寛平 5)
	◇平安初期の歌人。阿保(アボ)親王の第2子、在原業平(ナリヒラ)
	の兄。
	  826(天長 3)弟業平らと在原姓を賜る。
	 大宰権帥・中納言民部卿。
	 須磨(スマ)に流される。
ありま しんしち
	有馬 新七
	1825(文政 8.11. 4)
	1862(文久 2. 4.23)
	◇江戸幕末の尊王攘夷派の志士・薩摩藩士。名は正義・武麻呂、
	号は埴・鈴子。
	 初め郷士。
	 1827(文政10)有馬氏を継ぐ。
	 桜田門外の変に参加。
	 のち、造士館の教授。
	 1862(文久 2)藩主島津久光が兵を率いて上京するに従う。討
	幕の急先鋒として薩摩藩士田中謙助らと、関白九条尚忠と所司
	代酒井忠義とを殺そうと企て、京都伏見の船宿寺田屋に会合、
	島津久光の命による奈良原繁・道島正邦らが鎮撫しようとして
	互いに殺傷し、討死(寺田屋騒動)。
ありま すけまさ
	有馬 祐政
	1873.12. 5(明治 6)
	1931.10. 1(昭和 6)
	◇思想家。
ありま はるのぶ
	有馬 晴信
	1567(永禄10)
	1612(慶長17. 5. 6)
	◇安土桃山時代のキリシタン大名。名は鎮純・鎮景・正純のち
	晴信、小字は十郎、通称は修理大夫。肥前国有馬城主。有馬義
	直の第2子。
	 兄義純の早逝により家督を継ぎ、1576(天正 4)肥前国日野江
	城主。
	 1579(天正 7)ヴァリニャーニから洗礼を受け、教名はジョア
	ン・プロタジオ。1580(天正 8)有馬セミナリオを設立。1582
	(天正10)大村純忠(スミタダ)・大友宗麟(ソウリン)とともに天正遣欧
	使節を派遣。
	 1584(天正12)島津貴久と結び龍造寺隆信を滅ぼし、のち豊臣
	秀吉に仕え、九州征伐(島津征伐)・文禄慶長の役に従軍。
	 1587(天正15)秀吉の禁教令により避難した宣教師・教徒を保
	護。
	 1600(慶長 5)関ヶ原では徳川家康側の東軍に属し、小西行長
	の居城安土城を攻める。
	 1609(慶長14)長崎のポルトガル船マードレ・デ・デウス号を
	焼き打ち。恩賞として旧領地の回復を望み、徳川家康の側近本
	多正純の家臣岡本大八(キリシタン)に贈賄、事が露顕して大八
	に晴信の旧悪の長崎奉行長谷川藤広暗殺未遂をあばかれる(岡
	本大八事件)。岡本大八は駿府で火刑、晴信は除封のうえ甲斐
	国都留郡に流配されて切腹。
	◎岡本大八事件は晴信・大八の両者ともキリシタンであったた
	め、幕府のキリシタン禁制の発端となる。
ありま よりちか
	有馬 頼義
	1918. 2.14(大正 7)
	1980. 4.15(昭和55)
	◇小説家。東京青山生れ。久留米藩主・伯爵の家系、有馬頼寧
	(ヨリヤス)の三男。
ありま よりやす
	有馬 頼寧
	1884(明治17)
	1957(昭和32)
	◇政治家。旧久留米藩主頼万の長男、有馬頼義(ヨリチカ)の父。東
	京生れ。
	 東京大学農学部卒業。農商務省に入る。1924(大正13)代議士
	に当選、政友会に属する。水平運動・農民解放運動を援助。第
	1次近衛文麿内閣の農林大臣。
	 1940.10.(昭和15)文麿らにより大政翼賛会が組織され、文麿
	が初代総裁・頼寧は初代事務総長。
	 太平洋戦争後、戦犯として逮捕。
	◎競馬の有馬記念は頼寧の姓から。
ありま よりゆき
	有馬 頼(「彳」偏+「童」:補助2923)
	1714(正徳 4)
	1783(天明 3.10.23)
	◇江戸中期の和算家・筑後久留米藩主。幼名は吉田左近・則昌、
	字は其映、号は秋風閣・潜淵子・林窓舎。有馬則維の子。
	 関流山路主住に数学を学ぶ。
ありまつ まさのぶ
	有松 正信
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸後期の和算家。
ありまのおうじ
	有間 皇子
	⇒ありまのみこ(有間 皇子)
ありまのみこ
	有間 皇子
	 640[舒明12]
	 658[斉明 4.11.11]
	◇大和時代の歌人。「ありまのおうじ」とも呼ぶ。孝徳天皇の皇
	子、母は阿倍倉梯麻呂(クラハシマロ)(内麻呂)の娘小足媛(オタラシヒメ)。
	   645(大化元)の大化改新が落ち着いた後、政府内部に派閥
	争いが生じる。 649(大化 5. 3.17)祖父の倉梯麻呂が亡くなる。
	 653(白雉 4)中大兄皇子・中臣鎌足らの政治改革により、中大
	兄皇子・間人(ハシヒト)皇后・大海人皇子らが父の孝徳天皇をひと
	り難波長柄豊碕の宮に残し大和へ引き揚げ、翌年父は悶死。
	  657[斉明 3]斉明天皇が失政により反感を得ていたので、身
	に危険を感じ、有力な皇位継承者であることから逃れようと狂
	気を装い、牟婁(ムロ)の温泉(白浜温泉湯崎)に行き病が癒えたと
	いう。
	  658[斉明 4.10.]皇子の言葉により斉明天皇・中大兄皇子ら
	は牟婁温泉に出掛け、その留守中に蘇我赤兄(アカエ)に反乱を扇
	動される。その夜に赤兄自身に捕えられて、中大兄皇子に糾問
	(キュウモン)を受けた後、紀州藤白坂(フジシロノサカ)(海南市藤白)で縛
	り首にされる。
	 護送途中の辞世の句は『万葉集』に収められている。「磐代
	(イハシロ)の浜松が枝(エ)を引き結び/真幸(マサキ)くあらばまた還り
	見む」・「家にあれば笥(ケ)に盛る飯(イヒ)を/草枕旅にしあれば
	椎(シヒ)の葉に盛る」。
ありもと ほうすい
	有本 芳水
	1886. 3. 3(明治19)
	1976. 1.21(昭和51)
	◇詩人・歌人。本名は歓之助。兵庫県生れ。早稲田大学国文科
	卒業。
ありもと らくざん
	有本 楽山
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸幕末の紀伊国和歌山藩士。名は応寅、通称は兵庫、号は
	楽山。
ありやま げんとう
	有山 玄統
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸後期の心学者。名は玄統・統、通称は新兵衛、号は(「艸」
	冠+「惠」:補助5740)圃。
ありよし さわこ
	有吉 佐和子
	1931. 1.20(昭和 6)
	1984. 8.30(昭和59)
	◇小説家。和歌山県真砂町(マサゴチョウ)生れ。東京女子大短大英
	文科卒業。
ありよし ぞうき
	有吉 蔵器
	1733(享保18)
	1799(寛政11. 9.26)
	◇江戸中期の漢学者。名は以顕、字は叔孝、通称は瀬介・和介、
	号は蔵器。備前国和気郡働村の大庄屋の第3子。
	 閑谷学校の講官、1792(寛政 4)督学に就任。
	 一説に没年は1800(寛政12. 9.)。
ありわらの……《ありはらの……》
	在原 ……
	⇒ありはらの……(在原 ……)
あわしま かんげつ
	淡島 寒月
	1859(安政 6.10.23)
	1926. 2.23(大正15)
	◇小説家・随筆家。本名は宝受郎(ホウジュロウ)、号は愛鶴軒・
	梵雲庵(ボンウンアン)。江戸生れ。淡島椿岳(アワシマ・チンガク)の子。
あわしま ちんがく
	淡島 椿岳
	1823(文政 6)
	1889. 9.21(明治22)
	◇画家。名は氏平、通称は城三、別号は吉梵・南平堂。
	淡島寒月(アワシマ・カンゲツ)の父。
あん じゅうこん《あん ぢゆうこん》
	安 重根
	1879. 8.21(明治12)
	1910. 2.26(明治43)
	◇朝鮮の独立運動家。朝鮮読みはアンチュングン(An Chung-gun)。
	黄海道海州生れ。
	 カトリック教徒となり、学校を設立。
	 1894(明治27)甲午農民戦争(東学党の乱)の際、朝鮮政府軍に
	入って農民軍と戦う。
	 その後、朝鮮への日本の軍事支配に危機感をいだき、1905
	(明治38)ころ植民地化に反対する義兵闘争に参加し、挙兵した
	が失敗。
	 1909.10.26(明治42)ハルビン駅で前韓国統監伊藤博文を射殺。
	 日露戦争宣戦の詔勅に「韓国の独立を守る」とあることから、
	安重根は「日本天皇陛下および韓国皇帝陛下に忠義を尽くす」た
	め殺害に及んだと述べた。
	 1910. 2.26(明治43)旅順監獄(刑務所)で処刑。
	◎韓国で義士と称えられている。
	◎安重根は殺人者として朝鮮カトリック教団から信者資格を剥
	奪(ハクダツ)されていたが、彼の誕生日にあたる1993. 8.21(平成
	 5)韓国カトリック教団によって公式に復権を宣言された。
あんかん てんのう《あんかん てんわう》
	安閑 天皇
	 466
	 535
	◇第27代天皇。名は勾大兄皇子(マカリノオオエノミコ)、諡号は広国押武
	金日天皇(ヒロクニオシタケカナヒノスメラミコト)。継体天皇の第一皇子、母は尾
	張氏の娘目子媛(メコヒメ)、第28代宣化(センカ)天皇・第29代欽明(キン
	メイ)天皇の兄。皇后は第24代仁賢(ニンケン)天皇の皇女春日山田皇
	女。
	 大和勾金橋(マカリカナノハシ)宮を都とする。
	 即位: 531(辛亥. 2. 7)、退位: 535(乙卯.12.17)。
	◎『日本書紀』欽明紀の紀年には問題が多く、欽明天皇も 531
	年に即位し、安閑・宣化天皇と両朝が対立していたとほぼ確定
	的に考えられている(上宮聖徳法王帝説)。
	◆陵墓は大阪府の古市高屋丘陵。
	(19)名は勾大兄(マガリノオオイネ)、……。
あんこう てんのう《あんかう てんわう》
	安康 天皇
	生年不詳
	没年不詳
	◇第20代天皇。名は穴穂尊(アナホノミコト)。第19代允恭(インギョウ)天
	皇の第2皇子、母は忍坂大中媛(オシサカノオオナカツヒメ)(応神天皇の孫)、
	木梨軽皇子(キナシノカルノミコ)の弟。
	皇后は中蒂姫(ナカシヒメ)。
	 皇太子木梨軽皇子を殺して皇位につき、大和国石上穴穂宮(イ
	ソノカミノアナホノミヤ)を都とする。
	 大草香皇子(オオクサカノミコ)を攻めて殺し、その妻中蒂姫を奪い妻
	とする。大草香皇子と中蒂姫との王子眉輪王(マヨワノオオキミ)により
	暗殺。
	 即位: 453(癸巳.12.14)、退位: 456(丙申. 8. 9)。
	◎『宋書』倭国伝の「興」に比定される。
	(2)允恭天皇の第2皇子,母は応神天皇の孫忍坂大中媛(オサカノオオ
	ナカツヒメ)。兄の皇太子木梨軽皇子(キナシノカルノミコ)を殺して……。
	(4)允恭天皇の第三皇子。
	 「衣通姫(ソトオリヒメ)」の項:皇后忍坂大中姫(オシサカノオオナカツヒメ)の妹
	……。
	(16)允恭天皇の第2皇子.母は忍坂大中媛(オシサカノオオナカツヒメ).皇
	太子梨軽皇子との…….
	◆陵墓は奈良市の菅原伏見西陵。
あんこくじ えけい《あんこくじ ゑけい》
	安国寺 恵瓊
	⇒えけい(恵瓊)
あんざい おうかいし
	安斎 桜(「石」偏+「鬼」)子(安齋 櫻<「石」偏+「鬼」>子)
	1886. 2. 7(明治19)
	1953.12.12(昭和28)
	◇俳人。本名は千里。宮城県登米町生れ。
あんざい ふゆえ
	安西 冬衛(安西 冬衞)
	1898. 3. 9(明治31)
	1965. 8.24(昭和40)
	◇詩人。本名は勝。奈良県生れ。
	(1)誕生日は 3.19。
	(3)誕生日は 3. 9。
	(5)誕生日は 3. 9。
	(8)誕生日は 3. 9。
	(11)誕生日は 3. 9。
	(13)誕生日は 3. 9。
あんどう いちろう
	安藤 一郎
	1907. 8.10(明治40)
	1972.11.23(昭和47)
	◇詩人・英米文学者。東京生れ。東京外語学校卒業。
あんどう こう
	安藤 こう
	1878(明治11)
	1963(昭和38)
	◇バイオリニスト。幸田露伴・延子・成友(シゲトモ)の妹。
	 東京音楽学校を卒業後、ドイツに留学しヨアヒムに学ぶ。帰
	国後、母校の教授。
あんどう こうせい
	安藤 更生
	1900. 6.10(明治33)
	1970.10.26(昭和45)
	◇美術史家。本名は正輝。
あんどう こせんし
	安藤 姑洗子
	1880.12. 1(明治13)
	1967.10.19(昭和42)
	◇俳人。本名は俊雄、初号は鴎洲(鴎:「區」偏+「鳥」)、別号は
	枕翠廬。
あんどう しげのぶ
	安藤 重信
	1557(弘治 3)
	1621(元和 7)
	◇江戸前期の幕府老職。三河生れ。安藤直次(ナオツグ)の弟。
	 徳川家康に仕え、のち秀忠に属する。1611(慶長16)老職。大
	坂冬・夏の陣に出陣。
あんどう しょうえき《あんどう しやうえき》
	安藤 昌益
	1703(元禄16)
	1762(宝暦12)
	◇江戸中期の医者・社会思想家。確竜堂良中と称する。出羽
	(現:秋田県)上層農民の生れ。
	 久保田(クボタ)(秋田市)で成長し、医学・本草学を修め、儒仏
	・天文学などにも造詣が深い。
	 1744〜1745(延享元〜 2)ころ、八戸(ハチノヘ)(現:青森県)城下
	の十三日町で町医者を開業。のち西欧事情を知るため長崎に遊
	学したともいわれる。
	 1758(宝暦 8)から秋田郡二井田村(ニイダムラ)に居住。
	 狩野亨吉(コウキチ)やE.H.ノーマンにより紹介。武家社会の封
	建制度を批判、それを正当化する儒仏を廃し、支配関係のない
	農本的原始共産社会を説き、日本人には数少ない思想家といわ
	れる。
	 著作は1752(宝暦 2)ころ『統道真伝』(5巻)・1753(宝暦 3)
	『自然真営道』(3巻刊行)など。
	◆生地秋田県大館市二井田村の温泉寺(オンセンジ)に墓がある。法
	名は昌安久益信士。死後、「守農太神確竜堂良中先生」の石碑が
	建てられた。
	◎『自然真営道』は稿本100巻、93冊。うち現存は15巻。
	 1899(明治32)秋田県出身の狩野亨吉により再発見される。
	 第二次世界大戦後、ノーマンの『忘れられた思想家』によっ
	て世界的に知られるようになる。封建制度を誰も疑問に思わな
	かった時代に、それを否定する考えに至ったことは高く評価さ
	れている。
	(4)生年は不詳。
	(6)生年は1703。
	(+)『岩波小辞典 哲学』1967年10月10日第2版第12刷。
	 生年は1707(宝永 4)、没年は?。
あんどう せいあん
	安東 省庵
	1622(元和 8)
	1701(元禄14.10.12)
	◇江戸前期の儒学者。名は守約、字(アザナ)は魯黙・子孜、号は
	恥斎・省庵。筑後の人。
	 京都で松永尺五らに学び、長崎で亡命してきた明の遺臣朱舜
	水に従学。筑後柳川藩に出仕し、藩儒となる。朱舜水に衣食住
	の経済援助をし、水戸徳川光圀の招聘の素地を作る。
	 著書は『省庵文集』・『三忠伝』など。
あんどう そろう
	安藤 甦浪
	1894. 9.29(明治27)
	1934. 3.14(昭和 9)
	◇俳人。
あんどう つるお
	安藤 鶴夫
	1908.11.16(明治41)
	1969. 9. 9(昭和44)
	◇小説家・演劇評論家。本姓は花島。東京浅草生れ。1934(昭
	和 9)法政大学仏文科卒業。
あんどう とちめんぼう
	安藤 橡面坊
	1869. 8.16(明治 2)
	1914. 9.25(大正 3)
	◇俳人。本名は練三郎、別号は橡庵・句仙・影人、旧号は(「白」
	偏+「皐」)々・龍山。
あんどう なおつぐ
	安藤 直次
	1544(天文13)
	1635(寛永12)
	◇江戸前期の紀州徳川家の付家老(ツケガロウ)・家康第十子頼宣(ヨ
	リノブ)の傅役(モリヤク)。三河生れ。安藤重信の兄。
あんどう のぶまさ
	安藤 信正
	1819(文政 2)
	1871(明治 4)
	◇江戸幕末の老中。通称は対馬守。磐城平藩主。
	 1860(安政 7. 3. 3)井伊直弼の暗殺後、老中筆頭となる。公
	武合体策を進める。またロシア艦対馬上陸事件・ヒュースケン
	事件などを処理。
	 皇妹和宮(カズノミヤ)の降嫁を図ったため尊攘派の反対を受け、
	1862(文久 2. 1.15)江戸城坂下門外で水戸藩などの浪士7人に
	より襲撃されピストルも使用されたが軽傷であった。しかし、
	世論は不評で3ヶ月後に辞職。
	 戊辰戦争では京都側に反抗し処罰される。
あんどう ひろしげ
	安藤 広重
	1797(寛政 9)
	1858(安政 5)
	◇江戸後期の浮世絵師。幼名は徳太郎、別名は歌川広重、俗称
	は重右衛門のち徳兵衛、号は一遊斎・一幽斎・一立斎・立斎。
	江戸八重洲河岸の火消し安藤源右衛門の子。
	 歌川豊広の門人。
	 『東海道五十三次』・『江戸名所百景』などが有名。
あんどう まさつぐ
	安藤 正次
	1878(明治11)
	1952(昭和27)
	◇国語学者。埼玉県生れ。東京大学選科卒業。
	 台北帝国大学総長・東洋大学大学院長。
あんどう わふう
	安藤 和風
	1866(慶応 2. 1.12)
	1937. 2.16(昭和12)
	◇俳人。本名は国之助、のち信順、別号は時雨庵。
あんとく てんのう《あんとく てんわう》
	安徳 天皇
	1178(治承 2.11.)
	1185(元暦 2. 3.24)
	◇第81代天皇。名は言仁(トキ)。高倉天皇の第1皇子、母は平清
	盛の娘建礼門院(ケイレイモンイン)徳子(トクコ)。
	 1180(治承 4)3歳で即位。1183(寿永 2)源(木曾)義仲に京を
	追われ、平宗盛(ムネモリ)(徳子の同母兄)に擁せられ西走。
	 平家一族とともに長門国下関壇ノ浦に入水(ジュスイ)。
	 即位:1180(治承 4. 4.22)、退位(死亡):1185(元暦 2. 3.24)。
	◎入水の際、三種の神器(ジンギ)の一つ天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)
	が海底に没し、失われたという。
	◆陵墓は下関市阿弥陀寺町の阿弥陀寺陵。
あんねい てんのう《あんねい てんわう》
	安寧 天皇
	生年不詳
	没年不詳
	◇第3代天皇。名は磯城津彦玉看(シキツヒコタマテミ)。綏靖(スイゼイ)天
	皇の第1皇子、母は事代主神の娘五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)。皇后
	は淳名底仲媛(ヌナソコノナカツヒメ)。
	 大和国片塩の浮孔宮(ウキアナノミヤ)を都とする。
	 即位:B.C.549、退位:B.C.511。
	◆陵墓は奈良県橿原市郡畝傍町の畝傍山西南御蔭井上陵とされ
	る。
	(2)浮孔宮(ウキアナノミヤ)に都したと伝える。
	(16)浮穴宮を都とする.
あんねん
	安然
	 841(承和 8)頃
	 884(元慶 8)頃
	◇平安前期の天台宗の僧。五大院大徳・密教大師とも。近江の
	人。
	 円仁・遍照・円珍について天台密教を学ぶ。比叡山の五大院
	で著述に専念。元慶寺の住職。
あんらくあん さくでん
	安楽庵 策伝
	1554(天文23)
	1642(寛永19. 1. 8)
	◇安土桃山〜江戸初期の説教僧・茶人・文人。俗名は
	平林平太夫(ヘイダユウ)、号は一説に醒翁(セイオウ)。京都誓願寺竹林
	院の住持。
	 1623(元和 9)京都所司代板倉重宗(シゲムネ)のために『醒睡笑
	(セイスイショウ)』を著述、後世の文学・落語への影響が大。
	 寺域に安楽庵を結ぶ。
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