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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6001.03

                 人   名   辞   典    《あ》       編集:獨  澄旻

-------- あ ----------------------------------------------------
あいおい よしたろう
	相生 由太郎
	1867. 5.31(慶応 3. 4.28)
	1930. 1. 3(昭和 5)
	◇実業家。福岡県生れ。
	 1896(明治29)東京高等商業学校(現:一橋大学)卒業。日本郵
	船・教員を経て三井物産に入社。1907(明治40)南満州鉄道大連
	埠頭事務所長。1909(明治42)大連市に埠頭荷役業の福昌公司(コ
	ンス)を設立。1916(大正 5)大連商工会議所会頭に就任。関東庁
	市制調査会委員・関東庁経済調査会委員。
あいおいがき かじん
	相生垣 瓜人
	1898. 8.14(明治31)
	1985. 2. 7(昭和60)
	◇俳人。本名は貫二。兵庫県高砂町生れ。東京美術学校卒業。
あいかわ かつろく
	相川 勝六
	1891.12. 6(明治24)
	1973.10. 3(昭和48)
	◇内務官僚・政治家。佐賀県生れ。
	 1919(大正 8)東京帝国大学卒業。内務省に入り、警視庁刑事
	部長・神奈川県警察部長などを歴任。1934(昭和 9)警保局保安
	課長となり第2次大本教(オオモトキョウ)弾圧などを指導。1936(昭和
	11)の二・二六事件の責任をとり朝鮮総督府警務局外事課長に
	転出。1937(昭和12)以来、宮崎・広島・愛知各県知事を歴任。
	大政翼賛会実践局長・内務次官を経て、1945(昭和20)小磯内閣
	の厚相として労務行政を強化。
	 1946〜1951(昭和21〜昭和26)公職追放。1952〜1972(昭和27
	〜昭和47)衆議院議員・自民党治安対策特別委員長。
あいかわ としたか
	相川 俊孝
	1889.12.24(明治22)
	1940.11.18(昭和15)
	◇詩人。
あいかわ はるき
	相川 春喜
	1909. 8.15(明治42)
	1953. 4.29(昭和28)
	◇技術史家。本名は矢浪久雄。新潟県生れ。
	 1929(昭和 4)学生ストで第四高等学校文科を中退。1936(昭
	和11)検挙(コム・アカデミー事件)、翌年釈放。1937〜1940(昭
	和12〜昭和15)岩波書店校正部嘱託。
	 1944(昭和19)召応。1945(昭和20)ソビエト軍に投降しシベリ
	アに抑留され、1949(昭和24)帰国。
	 1950(昭和25)日本共産党に入党。選挙活動中に死去。
あいかわ よしすけ《あいかは よしすけ》
	鮎川 義介
	⇒あゆかわ よしすけ(鮎川 義介)
あいざわ さぶろう《あひざは さぶらう》
	相沢 三郎
	1889. 9. 6(明治22)
	1936. 7. 3(昭和11)
	◇陸軍軍人・中佐。宮城県生れ。父は仙台藩士兵之助、母は仙
	台藩士羽田善助の娘まき子。妻は米子。
	 仙台陸軍幼年学校を経て、1910(明治43)陸軍士官学校卒業。
	 1910(明治43)仙台歩兵第29連隊に配属、東久迩稔彦(ナルヒコ)親
	王が中隊長であった。1918. 6.(大正 7)中尉として台湾歩兵第
	1連隊に転勤。1920(大正 9)戸山学校教官。1926. 8.(大正15)
	熊本の歩兵第13連隊中隊長。1927. 7.(昭和 2)少佐となり東京
	の歩兵第1連隊付。1931. 5.(昭和 6)青森の歩兵第5連隊大隊
	長、このころから憲兵にマークされる。1932. 8.(昭和 7)秋田
	の歩兵第17連隊付。1933. 8.(昭和 8)中佐として福山の歩兵第
	41連隊付。
	 皇道派と統制派の抗争から狂信的な皇道派だった相沢は、真
	崎教育総監罷免直後に上京し、1935. 7.19(昭和10)統制派の中
	心人物の軍務局長永田鉄山少将に辞職を勧める。 8.12永田鉄
	山を陸軍省内で斬殺(永田事件)。				
	 1936. 5. 7(昭和11)第1師団軍法会議で死刑となり、 6.30
	陸軍高等軍法会議で上告棄却。 7. 3、二・二六事件の反乱将
	校らとともに銃殺刑。
	(+)『検索!二・二六事件』
		雄山閣出版		1993年 8月 1日印刷
		田々宮英次郎:著		1993年 8月20日発行
	 中佐は明治二十二年九月九日、父の任地である福島県白河町
	に生れたが、本籍は仙台市東六番町にあった。
あいざわ しげあき
	相沢 茂明
	1910. 3.15(明治43)
	1981. 6.28(昭和56)
	◇労働運動家・政治家。神奈川県生れ。
	 1929(昭和 4)東京鉄道教習所専修部修了し、同年東京鉄道局
	に入る。
	 太平洋戦争後、神奈川県労働金庫理事長・1948(昭和23)国鉄
	労働組合中央執行委員。
	 1953(昭和28)組合闘争の責任を問われ解雇、同年参議院選挙
	の神奈川地方区から社会党公認で立候補し落選。1954(昭和29)
	総評副議長。1955(昭和30)神奈川知事選挙にも落選。1956(昭
	和31)参議院選挙で初当選、1962(昭和37)再選。
	 1967(昭和42)収賄容疑で起訴され、有罪判決を受けその上告
	中に病死。
あいざわ せいしさい《あひざは せいしさい》
	会沢 正志斎
	⇒あいざわ やすし(会沢 安)
あいざわ ただひろ
	相沢 忠洋
	1926. 6.21(大正15)
	1989. 5.22(平成元)
	◇考古学者。東京生れ。
	 1937(昭和12)夜間の青年学校を卒業。
	 日本で最初の旧石器の発見者。
あいざわ やすし《あひざは やすし》
	会沢 安
	1781(天明元. 5.25)
	1863(文久 3. 7.14)
	◇江戸後期の学者。名は安、字は伯民、通称は恒蔵、号は憩斎
	・正志斎(セイシサイ)。常陸国久慈郡諸沢村生れ。水戸藩の下士。
	 藤田幽谷に学び、幼少の徳川斉昭(ナリアキ)を指導。斉昭の長兄
	の水戸藩主徳川斉脩(ナリナガ)に子がなく、藩内に第11代将軍家
	斉(イエナリ)の子を藩主に迎えようとする上層保守派があったが、
	藤田東湖(トウコ)(幽谷の子)・安島帯刀(アジマ・タテワキ)ら下士改革派
	と斉昭を擁立、1829(文政12)斉脩の死去により斉昭が第9代藩
	主を継ぐ。これにより東湖らとともに藩政改革に参画。
	 弘道館教授。彰考館総裁。
	(4)生年は1782。
	(6)生年は1782。
	(16)生日は1781(天明1. 5/25)。
	(26)生年は1782。
あいじま きょこう
	相島 虚吼
	1867(慶応 3.12.19)
	1935. 4. 4(昭和10)
	◇ジャーナリスト・俳人。本名は勘次郎。
	(?)相島 巨吼(あいしま きょこう)。
あいしんかくら ふぎ
	愛新覚羅 溥儀
	1906<光緒32>(明治39)
	1967(昭和42)
	◇中国、清朝最後の皇帝。姓は愛新覚羅、名は溥儀。醇親王(ジュ
	ンシンオウ)載(三水偏+「豊」)(サイホウ)の子、溥傑(フケツ)の兄。
	 清朝第12代皇帝、宣統帝(在位:1908〜1912)。辛亥革命によ
	り退位するが、皇帝の称号と年金を受ける。
	 1924(大正13)馮玉祥(フウ・ギョクショウ)のクーデタで紫禁城を脱出
	し、日本の保護を受ける。1932(昭和 7)日本軍部に擁せられ満
	州国の執政、1934(昭和 9)皇帝(康徳帝)(在位1934〜1945)。
	 日中戦争後、ソ連に抑留される。1950(昭和25)中国で戦犯と
	なり、1959(昭和34)特赦で一市民となる。
	 著書は『わが半生』。
	◎ラストエンペラーと呼ばれる。
あいす いこう《あいす いかう》
	愛洲 惟孝
	1452
	1538(天文 7)
	◇室町後期の剣術家。名は久忠、号は惟孝・移香(イコウ)・移香
	斎、通称は日向守。愛洲小七郎宗通(アイス・コシチロウ・ムネミツ)の父。
	 日向の鵜戸明神(ウドミョウジン)の岩屋に参籠して陰流(カゲリュウ)
	(愛洲陰流)を興す。
	(*)1452(宝徳 4,享徳元)。
あいす いこう《あいす いかう》
	愛洲 移香
	⇒あいす いこう(愛洲 惟孝)
あいす いこうさい《あいす いかうさい》
	愛洲 移香斎
	⇒あいす いこう(愛洲 惟孝)
あいず やいち
	会津 八一
	⇒あいづ やいち(会津 八一)
あいだ やすあき《あひだ やすあき》
	会田 安明
	1747(延享 4)
	1817(文化14.10.26)
	◇江戸時代の和算家。幼名は会田重松安旦、字は子貫、号は
	自在亭。出羽国(山形県)村山郡前赤石生れ。
	 23歳のとき江戸に出て幕臣鈴木家の御家人の株を買い鈴木彦
	助安旦となり、治水工事に従事。1787(天明 7)浪人となり再び
	会田算左衛門安明。
	 関(セキ)流と20余年に渡り論争、最上(モガミ)流を立てる。
あいだ ゆう
	会田 由
	1903. 4. 3(明治36)
	1971. 2.27(昭和46)
	◇スペイン文学者。
あいづ やいち
	会津 八一(會津 八一)
	1881. 8. 1(明治14)
	1956.11.21(昭和31)
	◇美術史家・歌人・書道家。号は秋艸道人(シュウソウドウジン)・
	渾斎(コンサイ)・八朔郎(ハッサクロウ)。新潟市古町通生れ。
	 1906(明治39)早稲田大学英文科卒業。早稲田大学教授、英文
	学・東洋美術史を講義。
	◆八一忌(秋艸忌・渾斎忌)[11.21]。
あいづや はちえもん
	会津屋 八右衛門
	生年不詳
	1836(天保 7)
	◇江戸末期の廻船問屋。石見(島根県)の人。
	 竹島の所属・来歴を調べ渡航を企てる。幕府に探知され、死罪。
あいみつ
	靉光
	1907(明治40)
	1946(昭和21)
	◇洋画家。本名は石村日郎、画名は靉川光郎。広島県生れ。
	 1924(大正13)大阪の天彩画塾で学ぶ。1925(大正14)上京、太
	平洋画会研究所に入所。1939(昭和14)美術文化協会の創立に参
	加。1942(昭和17)新人画会の会員。
	 上海で戦病死。
あえば こうそん《あへば くわうそん》
	饗庭 篁村
	1855(安政 2. 8.15)
	1922. 6.20(大正11)
	◇小説家・演劇評論家。本名は与三郎(與三郎)、号は竜泉居士
	(龍泉居士)・太阿(タイア)居士・竹の屋主人・竹の舎(ヤ)主人。江
	戸の下谷竜泉寺町生れ。
	 1874(明治 7)読売新聞に入社。1886(明治19)『当世商人気質』。
	(4)別号は竹の屋主人。東京の生れ。
	(6)竹の屋主人の号で……。江戸生まれ。
	(16)別号竹之屋主人.江戸日本橋呉服商の子.
あえば とうあん
	饗庭 東庵
	1615
	1673
	◇江戸前期の医者。
	(*)1615(慶長20,元和元)、1673(寛文13,延宝元)。
あお いえつぐ
	青 家次
	生年不詳
	没年不詳
	◇室町末期の鏡師。天正年間(1573〜1592)に活躍。
あおうどう でんぜん《あおうだう でんぜん》
	亜欧堂 田善
	1748
	1823(文政 6. 5. 7)
	◇江戸後期の洋風画家。本名は永田善吉、略称は田善。岩代国
	須賀川生れ。
	 月僊(ゲッセン)・谷文晁(タニ・ブンチョウ)に学ぶ。さらに長崎の蘭学
	者から洋風画や銅版画を修得。
	(4)没年は1822。
	(6)没年は1822。
	(*)1748(延享 5,寛延元)。
あおえ しゅんじろう《あをえ しゆんじらう》
	青江 舜二郎
	1904.11.26(明治37)
	1983. 4.30(昭和58)
	◇劇作家。秋田県生れ。1929(昭和 4)東京大学印度哲学科卒業。
	(5)本名は大嶋長三郎。
	(8)本名は大島長三郎。
あおえ みな《あをえ みな》
	青江 三奈
	1945. 7. 7(昭和20)
	2000. 7. 2(平成12)
	◇歌手。本名は井原静子(イハラ・シズコ)。東京都江東区生れ。
	 クラブ歌手。
	 1966(昭和41)『恍惚のブルース』でデビュー。
	 膵臓(スイゾウ)ガンで死去。
	 ヒット曲は1968(昭和43)『伊勢佐木町ブルース』・1969(昭
	和44)『池袋の夜』・『長崎ブルース』・『新宿サタディナイ
	ト』・『国際線待合室』など。
	◎『港町ブルース』を歌った森進一とともにハスキーボイスで
	知られる。
あおき いわお
	青木 巌
	1900.10. 5(明治33)
	1973. 1.11(昭和48)
	◇西洋古典学者。
あおき おきかつ
	青木 興勝
	1726(享保11)
	1812(文化 9)
	◇江戸後期の蘭学者。旧姓は百野、通称は次右衛門、字は定遠
	・季方、号は五竜山人。福岡藩士。
あおき げっと
	青木 月斗
	1879.11.20(明治12)
	1949. 3.17(昭和24)
	◇俳人。本名は新護、号は小学校時代に図書、十七歳のとき
	月兎(ゲット)、1907(明治40)夏から月斗、晩年は山水老人。大阪
	市東区南久太郎町に生れ、若くして父を喪ない、家業の青木新
	護薬房を継ぐ。1894(明治27)大阪薬学校に入学したが中退。
	1900(明治33)に妹しげ江(茂枝)が河東碧梧桐(カワヒガシ・ヘキゴドウ)
	の妻となり、1908(明治41)には実子を碧梧桐の養女とする。
	1920(大正 9)俳誌「同人」を創刊。
	(5)「月斗」では妹茂枝(シゲエ)。
	(8)妹しげ江(茂枝)、「河東碧梧桐」では妹繁栄(シゲエ)。
	(11)「河東碧梧桐」では妹茂枝(シゲエ)。
	(13)三水老人の別号がある。
	◆月斗忌[ 3.17]。
あおき けんさく
	青木 健作
	1883.11.27(明治16)
	1964.12.16(昭和39)
	◇小説家。本姓は井本、青木は旧姓。山口県生れ。東京大学美
	学科卒業。
あおき けんせい
	青木 賢清
	1580(天正 8)
	1656(明暦 2)
	◇江戸前期の修験者・宮司。肥前国佐賀の人。長崎でキリスト
	教の排撃をする。1624年、長崎奉行所の援助により長崎諏訪神
	社を復興し、のち宮司となる。
あおき こんよう《あおき こんやう》
	青木 昆陽
	1698(元禄11. 5.12)
	1769(明和 6.10.12)
	◇江戸中期の儒学者・蘭学者。名は敦書(アツブミ)、字は厚甫、
	通称は文蔵、号は昆陽。江戸日本橋の魚問屋に生れる。
	 伊藤東涯に師事。与力加藤枝直が昆陽の『蕃薯考』(1735<享
	保20>)を町奉行大岡忠相に推挙、忠相の知遇を受ける。1739
	(元文 4)御書物御用達。第8代将軍吉宗の内示により蘭学を修
	める。のち書物奉行。
	 オランダ語の初歩を修め、前野良沢に教える。
	 没後、甘藷先生と称される。
	◎東京都文京区の小石川植物園の甘藷試作の地に青木昆陽碑が
	ある。
あおき しくんろう
	青木 此君楼
	1887. 4.13(明治20)
	1968. 2.20(昭和43)
	◇俳人。本名は茂雄。
あおき しげる
	青木 繁
	1882. 7.13(明治15)
	1911. 3.25(明治44)
	◇明治期の洋画家。日本神話を描く、挿絵もある。福田蘭童(ラ
	ンドウ)の父。東京生れ。
	 肺結核のため、麻布中学を中退。1904(明治37)東京美術学校
	を卒業。
	 結核により福岡松浦病院で死去。
	(2)1899(明治32)久留米中学明善校を3学年で退学、洋画家を
	志して上京、不同舎に入る。翌年東京美術学校に入学、……。
	(4)久留米生れ。
	(6)久留米生まれ。1899年上京,小山正太郎の不同舎に入る。
	1904年東京美術学校西洋画科選科卒。
	(16)福岡県久留米の人.小山正太郎の不同舎に学び、のち東京
	美術学校に入学,1904(明治37)年同校洋画科選科を卒業.
あおき しげる
	青木 茂
	1897. 3.30(明治30)
	1982. 3.27(昭和57)
	◇児童文学者。
あおき しゅうすけ
	青木 周弼
	1803(享和 3)
	1863(文久 3.12.16)
	◇江戸後期の蘭方医。名は邦彦、号は月橋。周防国大島生れ。
	初め漢医方を学び、のち長崎に出てシーボルトから蘭医方を学
	ぶ。1838(天保 9. 6.)毛利藩に出仕。種痘を藩中に施術する。
あおき しゅうぞう《あおき しうざう》
	青木 周蔵
	1844(天保15. 1.)
	1914. 3.16(大正 3)
	◇明治期の外交官・政治家。長州藩出身。
	 1873(明治 6)駐独外務一等書記官。
	 1889(明治22)第1次山県内閣の外務大臣、1891(明治24)第1
	次松方内閣の外務大臣、1891(明治24)大津事件で辞職。
	 1894(明治27)イギリス公使として陸奥宗光外務大臣に協力し
	て日英通称条約の改正に成功。
	 晩年、枢密顧問官。
あおき しゅくや
	青木 夙夜
	生年不詳
	1789頃
	◇江戸中期の南画家。名は俊明、字は夙夜、韓国の余章王の後
	裔余夙夜と自称、号は士風・大雅春塘・八岳山人。池大雅に学
	び、二世大雅堂とも称する。
	(*)1789(天明 9,寛政元)。
あおき そうほう
	青木 宗鳳
	生年不詳
	1765(明和 2)
	◇江戸中期の茶人。号は几鳥・紫雪庵・水蒲・一統子。
あおき としひこ
	青木 敏彦
	1900(明治33)
	1956.11. 9(昭和31)
	◇俳人。
あおき ながひろ
	青木 永弘(青木 長広)
	1656(明暦 2)
	1724(享保 9. 1.10)
	◇江戸前期の吉田流神道家。本姓は藤原。長崎の諏訪神社の神
	官。
あおき まさる
	青木 正児
	1887. 2.14(明治20)
	1964.12. 2(昭和39)
	◇大正・昭和期の中国文学者。号は迷陽。京都大学卒業。山口
	県生れ。
	 1920(大正 9)京都で小島祐馬・本田成之らと雑誌「支那学」を
	発行。1924(大正13)東北大学教授、1925〜1926(大正14〜大正
	15)北京に留学。1938(昭和13)京都大学、1949(昭和24)山口大
	学、のち立命館大学教授。
	 中国留学中に『北京風俗図譜』を著す。
あおき もくべい
	青木 木米
	1767(明和 4)
	1833(天保 4. 5.16)
	◇江戸後期の陶工・南画家。幼名は八十八、別号は百六散人、
	通称は木屋佐兵衛、中年以後聴力を失い聾米と称する。京都の
	人。
	 奥田穎川に陶法を学ぶ。粟田に窯を開き、のち金沢に春日山
	窯を開く。
	 晩年、清国人朱笠亭の『陶説』を翻訳。
あおき ろすい
	青木 鷺水
	1658
	1733(享保18)
	◇江戸中期の俳人・浮世草子作者。
	(*)1658(明暦 4,万治元)。
あおち りんそう《あをち りんそう》
	青地 林宗
	1775(安永 4)
	1833(天保 4. 2.22)
	◇江戸後期の蘭学者・医者・物理学者。名は盈(エイ)、字は子遠、
	号は芳滸(ホウコ)、字(アザナ)は林宗。江戸の人。松山藩主の侍医
	快庵の子。
	 初め漢方医学を、のち杉田玄白について蘭学を修め、長崎に
	遊学。
	 のち江戸に帰り、幕府の訳官馬場佐十郎(サジュウロウ)に天文学
	を学び、幕府の司天台訳員となり洋書の翻訳に従事。1825(文
	政 8)日本で最初の物理学書『気海観瀾(キカイカンラン)』1巻を著述。
	1826(文政 9)『輿地誌略(ヨチシリャク)』7巻を訳述。ロシア人ゴロ
	ブニンの『日本幽囚記(ユウシュウキ)』を馬場佐十郎と共訳(『遭厄
	(ソウヤク)日本紀事』)。他に『格物綜凡』など。
	 1832(天保 3)水戸藩医。
	 江戸で死去。
	(4)生年は1784。
	(6)生年は1775。
	(16)生年は1823(天保 4):誤。
	◆墓は浅草の曹源寺。
あおと つなよし
	青砥 綱義
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸中期の養魚家。通称は武平次。越後国村上藩士。宝暦年
	間(1751〜1764)領内の三面川で種川制度(タネカワセイド)という鮭の
	人工孵化法を初めて試みる。
あおと なみえ
	青戸 波江
	1857(安政 4.10. 8)
	1929.12.10(昭和 4)
	◇明治・大正期の神職・典礼師範。売布(メフ)神社祠官青戸建庭
	の4男。
あおの すえきち《あをの すゑきち》
	青野 季吉
	1890. 2.24(明治23)
	1961. 6.23(昭和36)
	◇大正・昭和期の文芸評論家。幼名は儀一郎、4〜5歳頃に忠吉、
	中学入学前頃に季吉と改名。新潟県佐渡郡沢根村生れ。
	 1915(大正 4)早稲田大学英文学部卒業。同年、読売新聞社に
	入社、争議を指導し解雇。1923(大正12)「種蒔く人」同人。「文
	芸戦線」で活躍。1938(昭和13)人民戦線事件に連座し、転向。
あおや げんえもん
	粟生屋 源右衛門
	1792(寛政 4)
	1858(安政 5)
	◇江戸後期の加賀九谷焼の陶工。時々、父源兵衛の号である
	「東郊」の押印を用いた。1822(文政 5)加賀小松に開窯。
あおやぎ きべい
	青柳 喜兵衛
	1904. 1. 1(明治37)
	1938. 8.28(昭和13)
	◇画家・詩人。
あおやぎ せいせい
	青柳 菁々
	1901. 7.16(明治34)
	1957. 1. 1(昭和32)
	◇俳人。本名は正二。
あおやぎ たねのぶ
	青柳 種信
	1766(明和 3)
	1835(天保 6.12. 6)
	◇江戸後期の国学者。通称は勝次、号は柳園。筑前の人。
	 本居宣長に師事、名声が上がり藩士になる。
	 1812(文化 9)伊能忠敬(タダタカ)が筑前を測量した時、藩命に
	より協力。
あおやぎ みずほ
	青柳 瑞穂
	1899. 5.29(明治32)
	1971.12.15(昭和46)
	◇詩人・フランス文学者・美術評論家。山梨県生れ。慶応義塾
	大学仏文科卒業。
あおやぎ ゆうび
	青柳 有美
	1873. 9.27(明治 6)
	1945. 7.10(昭和20)
	◇評論家・随筆家。本名は猛(タケシ)。秋田県生れ。同志社普通
	学校卒業。
あおやぎ ゆたか
	青柳 優
	1904. 2. 1(明治37)
	1944. 7.30(昭和19)
	◇文芸評論家・詩人。長野県生れ。早稲田大学英文科卒業。
あおやま あきら《あをやま あきら》
	青山 士
	1878. 9.23(明治11)
	1963(昭和38)
	◇磐田市中泉生れ。
	 帝国大学工学部土木工学科、卒業。
	 1904(明治37)自費でパナマ運河工事に従事。測量の見習い技
	師から始めて、次第に実力を認められ、大西洋側のガツン閘門
	の重要部分の設計を任せられるが、運河は米国の機密事項であ
	るとして外される。
	 帰国後、荒川改修の荒川放水路と岩淵水門に従事。信濃川の
	大河津分水路を完成。
あおやま かげみち
	青山 景通
	1819(文政 2)
	1891.12.11(明治24)
	◇江戸幕末・明治維新期の国学者(平田派)。美濃苗木藩士。青
	山直道(ナオミチ)の父。
	 平田篤胤(アツタネ)に学ぶ。
あおやま かそん
	青山 霞村
	1874. 6. 7(明治 7)
	1940. 2.(昭和15)
	◇歌人。本名は嘉二郎、別名は草山隠者。
あおやま くまじ《あをやま くまぢ》
	青山 熊治
	1886(明治19)
	1932.12.11(昭和 7)
	◇洋画家。兵庫県生野生れ。
	 1904(明治37)東京美術学校入学、同校卒業。
	 1910(明治43)『アイヌ』白馬賞を受賞。1914(大正 3)渡欧、
	1922(大正11)までパリ在住。
	 帰国後、帝展審査員。1926(大正15)帝展で『高原』、1928
	(昭和 3)帝展で『黄昏』を発表。
	 1932(昭和 7)九州大学の壁画製作中に客死。
	(6)東京美術学校中退。
あおやま すぎさく
	青山 杉作
	1889. 7.22(明治22)
	1956.12.26(昭和31)
	◇演出家・俳優・俳優教師。本名は達美。新潟生れ。
	 早稲田大学中退。
	 1917(大正 6)村田実らと踏路社(トウロシャ)を創立。
	 1924(大正13)築地小劇場同人。松竹少女歌劇団の養成・指導。
	 1944(昭和19)千田是也(センダ・コレヤ)・小沢栄太郎・東山千栄子
	らと俳優座を結成。
あおやま ただとし
	青山 忠俊
	1578(天正 6)
	1643(寛永20. 4.15)
	◇江戸初期の老中。字は藤九郎。忠成の子。武蔵国岩槻藩主。
	1586(天正14)徳川秀忠に仕え、関ヶ原の役・大坂の陣に従軍。
	家光の代に土井利勝(ドイ・トシカツ)・酒井忠世(サカイ・タダヨ)とともに
	寛永の三輔といわれる。諌言(カンゲン)により家光の勘気に触れ、
	1623(元和 9)上総大多喜城二万石に減封、のち蟄居(チッキョ)、相
	摸国今泉で死去。
あおやま ただなり
	青山 忠成
	1551(天文20)
	1613(慶長18)
	◇江戸初期の関東総奉行。徳川譜代の青山忠門(タダカド)の子、
	忠俊(タダトシ)の父。
あおやま ただみち
	青山 忠裕
	1768(明和 5)
	1836(天保 7)
	◇江戸中期の老中・丹波国篠山藩主。下野守。1804年、老中と
	なる。1789年、光格(コウカク)天皇が生父閑院宮典仁親王に太上天
	皇の尊号を奏上しようとした事件を老中松平定信が拒み、これ
	を解決する。
	(*)1804(享和 4,文化元)、1789(天明 9,寛政元)。
あおやま たねみち《あをやま たねみち》
	青山 胤通
	1859(安政 6. 5.)
	1917(大正 6.12.24)
	◇医学者。美濃の人。
	 1882(明治15)東京大学医学部卒業。ベルリンに留学。1887
	(明治20)東京大学教授・伝染病研究所所長・宮内省御用掛。
	1901(明治34)癌研究会を創立。
あおやま なおみち
	青山 直道
	1846(弘化 3)
	1906(明治39)
	◇明治維新期の藩政改革者。青山景通(カゲミチ)の子。
あおやま のぶゆき《あをやま のぶゆき》
	青山 延于
	1776(安永 5)
	1843(天保14. 9. 6)
	◇江戸後期の儒学者(水戸学派)。通称は量介、字は子世、号は
	拙斎・雲龍。水戸藩士。延彝の子、延光の父。
	 立原翠軒(タチハラ・スイケン)に学ぶ。彰考館および弘道館総裁。
あかい かげあき
	赤井 景韶
	1859(安政 6)
	1885(明治18)
	◇明治初期の自由民権運動家。
	 スパイの密告によって、1883. 3.(明治16)新潟県の頸城(クビ
	キ)自由党員赤井らが大臣暗殺・内乱の陰謀ありとして、新潟県
	高田での北陸七州自由党懇談会に出席した36名が一斉検挙。証
	拠がなく釈放されたが、赤井だけは重禁獄となる。のち脱獄す
	るが、内乱罪で死刑。
あかいわ さかえ
	赤岩 栄
	1903. 4. 6(明治36)
	1966.11.28(昭和41)
	◇評論家・牧師(新教)。愛媛県生れ。
	 社会主義運動に参加。『キリスト教脱出記』を著す。
あかお とうし
	赤尾 兜子
	1925. 2.28(大正14)
	1981. 3.17(昭和56)
	◇俳人。本名は俊郎(トシロウ)。
あかがわ ぶすけ
	赤川 武助
	1906.12. 6(明治39)
	1954. 3.17(昭和29)
	◇児童文学者。
あかぎ かくどう
	赤木 格堂
	1879. 7.27(明治12)
	1948.12. 1(昭和23)
	◇歌人・俳人・政治家。本名は亀一。岡山県生れ。衆議院議員。
あかぎ こうへい
	赤木 桁平
	1891. 2. 9(明治24)
	1949.12.10(昭和24)
	◇評論家・政治家。本名は池崎忠孝、旧姓は赤木。岡山県生れ。
	東京大学独法科卒業。
あかぎ さかえ
	赤城 さかえ
	1908. 6. 3(明治41)
	1967. 5.16(昭和42)
	◇俳人。本名は藤村昌(サカエ)。
あかぎ しょうぞう
	赤城 正蔵
	生年不詳
	没年不詳
	◇出版人。1914(大正 3)、一年間に百余冊の「アカギ叢書」を刊
	行、文庫本出版の先駆者。
あかぎ ただはる
	赤木 忠春
	1816(文化13)
	1865
	◇幕末の神道家・黒住教創建者の一人。名は宗一郎。美作(ミマサ
	カ)の地主出身。
	 1845(弘化 2)開祖黒住宗忠(クロズミ・ムネタダ)に入門。宗忠の死
	後、京都で布教し、1862(文久 2)京都神楽岡に宗忠神社を建立。
	晩年、黒住教に復古神道を導入したため、1864年、破門になる。
	(*)1865(元治 2,慶応元)、1864(文久 4,元治元)。
あかざわ ぶんじ《あかざは ぶんぢ》
	赤沢 文治
	1814(文化11)
	1883.10.10(明治16)
	◇金光教の教祖。幼名は香取(カンドリ)源七、本名は赤沢文治。
	教祖名は金光大神(コンコウ・ダイジン)。備中国占見村(現:岡山県金
	光町)生れ。
あかし かいじん
	明石 海人
	1901. 7. 5(明治34)
	1939. 6. 9(昭和14)
	◇詩人・歌人・画家。癩病患者のため本名・出生地は不詳。
	(1)生年は1901(明治34)。
	(3)生年は1901(明治34)。
	(5)生年は1902(明治35)。
	(8)生年は1901(明治34)。
	(11)生年は1902(明治35)。
あかし かくいち
	明石 覚一
	生年不詳
	1371(<南>建徳 2,<北>応安 4. 6.29)
	◇南北朝時代の琵琶法師。足利氏の一族、検校(ケンギョウ)。
あかし しがのすけ
	明石 志賀之助
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸初期の力士・初代横綱。宇都宮出身。
	 身長七尺五寸(2.3メートル)といわれ、寛永年間(1624〜1644)
	に活躍。京都に上り仁王仁太夫を倒し、朝廷より日下相撲開山
	(ヒノシタカイサン)の称号を受ける。
あかし じゅんぞう
	赤石 順三
	1889. 7. 1(明治22)
	1965.11.14(昭和40)
	◇宗教家(キリスト教)。
あかし じろう
	明石 次郎
	生年不詳
	1679(延宝 7. 9.20)
	◇江戸前期の明石縮の創始者。姓は堀、名は将俊。播磨国明石
	の人。越後国小千谷に移り、越後縮を改良し明石縮の製作に専
	念、寛文年間(1661〜1673)に創製。
あかし としお
	赤石 敏夫
	1897. 6.11(明治30)
	1970.10.10(昭和45)
	◇小説家。
あかし もとじろう
	明石 元二郎
	1864
	1919(大正 8)
	◇陸軍大将。
	 幼年学校・士官学校を経て、1894(明治27)ドイツに留学。日
	清戦争で近衛師団参謀。日露戦争中、欧州で諜報活動に従事。
	1908(明治41)朝鮮駐箚(チュウサツ)軍参謀長兼憲兵隊長として朝鮮
	併合に尽力。参謀本部次長・第六師団長。1918. 6. 6(大正 7)
	第7代台湾総督就任。1919. 8.20(大正 8)初代台湾軍司令官就
	任。
	(*)1864(文久 4,元治元)。
あかし もりしげ
	明石 守重
	生年不詳
	没年不詳
	◇安土桃山の武将。掃部(カモン)頭守重、号は全登。
	 1595(文禄 4)キリシタンになる。宇喜多秀家(ウキタ・ヒデイエ)に
	仕え、関ヶ原の役では豊臣方として戦い、敗れて筑前国秋月に
	潜伏。1615年、大坂の夏の陣で奮戦したが、敗れて潜伏。1617
	(元和 3)特赦を受けるが、やがて病死する。
	(*)1615(慶長20,元和元)。
あかぞめ えもん《あかぞめ ゑもん》
	赤染 衛門
	 957(天徳元)頃
	1041(長久 2)以降
	◇平安中期の女流歌人。右衛門尉赤染時用(トキモチ)の娘、一説に
	母の前夫平兼盛(カネモリ)の娘とも。大江匡衡(オオエノマサヒラ)の妻。
	 藤原道長の室倫子に仕える。
	 梨壺五歌仙・中古三十六歌仙の一。歌で和泉式部と並び称さ
	れる。
あがたいぬかいのたちばなのみちよ
	県犬飼 橘三千代
	生年不詳
	 733(天平 5. 1.11)
	◇奈良時代(天武〜聖武朝)の女官。別称は橘三千代・県犬養宿
	禰(スクネ)三千代・橘氏大夫人(ダイブニン)・県犬養宿禰命婦(ミョウブ)
	・県狗養宿禰命婦。県犬飼宿禰東人の娘。
	 はじめ美努(ミヌ)王に嫁して葛城王(カツラギオウ)(のちの橘諸兄<モ
	ロエ>)・佐為王・与漏女王を生む。
	 文武天皇のお守役として宮中に勢力を得、 708年橘姓を賜る。
	 のち藤原不比等(フヒト)に嫁して安宿媛(アスカベヒメ)(光明子,光明
	皇后)・多比能(のち諸兄夫人)を生む。
	(*) 708(慶雲 5,和銅元)。
あかつか じとく
	赤塚 自得
	1871(明治 4)
	1936(昭和11)
	◇漆芸家。代々平左衛門を名乗る。
	 父に蒔絵(マキエ)を、狩野久信・寺崎広業に日本画を、白馬会
	研究所で洋画を学ぶ。
あかね たけんど
	赤根 武人(赤彌 武人)
	1839(天保10)
	1866(慶応 2)
	◇幕末の志士。通称は幹之丞、旧姓は松崎、赤彌とも書く。周
	防国阿月の赤根雅平の養子。1863(文久 3)高杉晋作の後をつい
	で奇兵隊総督になる。しかし晋作と意見を異にし、新選組に加
	担、長州藩恭順派に内応して捕われ、斬首。
あがの きぞう
	上野 喜蔵
	生年不詳
	没年不詳
	◇安土桃山時代の肥前上野焼・肥後八代焼の陶祖。朝鮮人尊益
	の子で名は尊楷、和名は上野喜茂高園。文禄の役の時、細川忠
	興(三斎)に従って帰化し、肥前国田川郡に窯を開く。1632(寛
	永 9)細川藩とともに肥後に移り、八代郡奈良木村に窯を開き、
	八代焼(高田焼)を始める。
あかば がんけつ
	赤羽 巌穴
	1875. 4. 5(明治 8)
	1912. 3. 1(明治45)
	◇社会思想家。本名は一(ハジメ)。長野県生れ。東京法学院(現:
	中央大学)卒業。農民運動に従事し逮捕され、千葉刑務所で獄
	死。
あかばし ひでとき
	赤橋 英時
	生年不詳
	1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2. 5.25)
	◇鎌倉幕府最後の九州探題。北条英時、赤橋は鎌倉の地名。
	 時久の子、執権赤橋守時(モリトキ)の弟。
	(16)「あかばし」、「北条英時」の項では「あかはし」。
あかばし もりとき
	赤橋 守時
	生年不詳
	1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2. 5.18)
	◇鎌倉幕府最後の執権。北条守時、赤橋は鎌倉の地名。
	 時久の子、九州探題赤橋英時(ヒデトキ)の兄。
	 新田義貞と州崎で戦い、敗れて自刃。
	(16)「あかばし」、「北条守時」の項では「あかはし」。
あかばね げんぞう
	赤埴 源蔵
	⇒あかばね しげかた(赤埴 重賢)
あかばね しげかた
	赤埴 重賢
	1669(寛文 9)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。譜代の赤穂藩士、馬廻役、禄高200石、
	江戸詰め。通称は源蔵(ゲンゾウ)、戒名は刃名広中剣信士。吉良
	家の探索中の変名は高畠源五右衛門(タカハタ・ゲンゴエモン)。
	 討ち入りでは裏門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、
	中村角太夫(カクダユウ)の介錯(カイシャク)で切腹。
	◎浪曲などでは「赤垣(アカガキ)源蔵の徳利の別れ」で有名。
あかまつ うじのり《あかまつ うぢのり》
	赤松 氏範(赤松 氏則)
	1330(元徳 2)
	1386(<南>元中 3,<北>至徳 3. 9. 2)
	◇南北朝時代の武将。赤松則村(ノリムラ)の第4子、範資(ノリスケ)・
	貞範・則祐(ノリスケ)の弟。
	 父の死後、兄弟との不和で一人南朝(吉野方)につき、北朝側
	の兄たちと播磨の清水に戦って敗れ、自刃
あかまつ えんしん
	赤松 円心
	⇒あかまつ のりむら(赤松 則村)
あかまつ かつまろ
	赤松 克麿
	1894.11. 4(明治27)
	1955.12.13(昭和30)
	◇社会運動家。山口県出身。
	 東京大学に在学中、新人会を創立。卒業後、日本労働総同盟
	幹部。日本共産党の創立にも参画。のち転向して総同盟右派・
	社会民衆党書記長。1932(昭和 7)脱党して日本国家社会党・日
	本革新党などを結成。1940(昭和15)大政翼賛会に参加して企画
	部長。
	 第二次世界大戦後、戦争協力により公職追放。
	 著書は『日本社会運動史』・『日本労働運動発達史』など。
あかまつ こさぶろう《あかまつ こさぶらう》
	赤松 小三郎
	1831(天保 2)
	1867(慶応 3)
	◇幕末の洋式兵学者。名は友裕、号は宇宙堂。信州上田藩士。
	佐久間象山から兵学や数学を学ぶ。京都東洞院五条通で暗殺さ
	れる。
あかまつ そうしゅう《あかまつ さうしう》
	赤松 滄洲
	1721(享保 6)
	1801(寛政13. 1. 8)
	◇江戸中期の儒学者(折衷学派)。名は鴻、字は国鸞、号は滄洲。
	播磨国三日月藩の人。舟曳通益の子、赤穂藩の医官大川耕斎の
	養子。
あかまつ そくゆう《あかまつ そくいう》
	赤松 則祐
	⇒あかまつ のりすけ(赤松 則祐)
あかまつ のりすけ
	赤松 則祐
	1314(正和 3)
	1371(<南>建徳 2,<北>応安 4.11.29)
	◇南北朝時代の武将。法号は妙善、赤松律師ともいう。赤松則
	村(ノリムラ)の3男、範資(ノリスケ)の弟、義則(ヨシノリ)の父。
	 はじめ出家して延暦寺に居り、帥律師妙善と称する。
	 元弘の乱で、村上義光とともに十津川に匿れた護良(モリナガ)
	親王に従い、親王が吉野に兵を挙げると父則村に勧めて後醍醐
	天皇の倒幕挙兵に加わる。
	 のち足利尊氏に属し、父の没後に播磨守護職を継ぎ、備前・
	美作(ミマサカ)の守護職も兼ねる。
	(16)赤松則祐(ノリスケ)の項:生年は1314(正和 3)。
	(19)赤松則祐(ソクユウ)の項:生年は1311。
あかまつ のりすけ
	赤松 範資
	生年不祥
	没年不祥
	◇南北時代の武将・七条赤松家の祖。幼名は太郎、法名は世範。
	赤松則村(ノリムラ)の嫡男、貞範・則祐(ノリスケ)・氏範の兄。
	 元弘の乱に父則村とともに南朝方に味方して戦い、左京亮大
	夫判官。
	 1335(<南>建武 2,<北>建武 2)足利尊氏(アシカガ・タカウジ)の挙兵
	に応じて室町幕府の確立に尽くし、摂津守護職。
あかまつ のりむら
	赤松 則村
	1277(建治 3)
	1350(<南>正平 5,<北>貞和 6. 1.11)
	◇南北朝時代の武将。名は則村、初名は次郎、法名は円心(エンシ
	ン)。茂則(モチノリ)の子、範資(ノリスケ)・貞範・則祐(ノリスケ)・氏範の
	父。
	 元弘の乱に反幕府軍として護良(モリナガ)親王に従い播磨で挙
	兵し、杉坂山を守り山陽・山陰の両道の連絡を絶ち、ついで山
	崎・桂川の戦いに北条勢を破って上洛し、東寺に布陣。北条氏
	が滅亡して後醍醐天皇が隠岐から還幸した時、兵庫に迎える。
	功により播磨守護職に任じられ、建武中興の功臣であったが間
	もなく朝廷より職を免ぜられ、播磨国佐用庄を領有するのみと
	なる。
	 1335(<南>建武 2,<北>建武 2)足利尊氏(アシカガ・タカウジ)の挙兵
	とともに北朝に投じ活躍して、尊氏から播磨守護職に任じられ
	る。尊氏が九州に走った時、播磨白旗城に拠って新田義貞(ニッタ
	・ヨシサダ)の追撃を阻止。1338(<南>延元 3)尊氏の東上に当って
	は湊川で楠木正成(マサシゲ)らを破る。
	◎室町幕府開創を助け、赤松氏繁栄の基礎を築く。
	◎1337(<南>延元 2,<北>建武 4)雪村友梅を開山として法雲寺
	を建立。
あかまつ ひろみち
	赤松 広通
	1568(永禄11)
	1600(慶長 5)
	◇安土桃山時代の武将。名は広秀・広英とも、姓は斎村とも。
	赤松正秀の子。
	 関ヶ原の戦でははじめ西軍であったが、亀井茲矩(コレノリ)に誘
	われて東軍に加わる。
あかまつ まさのり
	赤松 政則
	1455
	1496(明応 5. 4.25)
	◇室町中期の武将。幼名は法師丸。性存の子、満祐(ミツスケ)の甥。
	 1441(嘉吉元)赤松満祐の嘉吉の乱で没落していた赤松氏の遺
	臣が、1458(長禄 2)南朝側から神璽を奪って幕府に献上し、赤
	松氏の再興が許される。応仁の乱では妻の父細川勝元に味方す
	る。
	(*)1455(享徳 4,康正元)。
あかまつ みつすけ
	赤松 満祐
	1381
	1441(嘉吉元. 9.10)
	◇室町中期の武将。法号は性具。教康(ノリヤス)の父、義則(ノリヨシ)
	の子、則祐(ノリスケ)の孫、則村(ノリムラ)の曾孫。
	 播磨(ハリマ)・備前・美作(ミマサカ)の守護職にあり、幕府の侍所
	頭人を勤め幕政に寄与。一時所領没収の風説で幕府に反抗。
	 のち将軍足利義教(ヨシノリ)が一族の赤松貞村に播磨守護職を与
	えようとしているの知り、1441(嘉吉元)義教を結城合戦平定の
	祝賀と称して京都の自邸に招き、長男教康に弑(シイ)させる。領
	国に帰った満祐は、幕府に遣わされた山名持豊(宗全)・細川氏
	に城山城を攻められ、教康を脱出させて一族は自害する(嘉吉
	<カキツ>の乱)。
	(*)1381(<南>天授 7,<北>康暦 3;<南>弘和元;<北>永徳元)。
あかまつ よしのり
	赤松 義則
	1358(<南>正平13,<北>延文 3)
	1427(応永34)
	◇南北朝・室町初期の武将。則祐(ノリスケ)の子。
	 明徳の乱に功があり旧領美作(ミマサカ)を回復し、播磨・備前・
	美作3国の守護職、幕府の侍所所司。
	 また、四職家の一つとなる。
あかまつ りんさく
	赤松 麟作
	1878. 1.20(明治11)
	1953.11.24(昭和28)
	◇洋画家。岡山県津山生れ。
	 1899(明治32)東京美術学校西洋画科選科卒業。
	 1901(明治34)『夜汽車』で白馬賞、受賞。北沢楽天の「東京
	パック」の成功に刺激されて1906. 9.(明治39)「大阪パック」(月
	二回刊)を創刊し弟子たち(赤松洋画研究所)に漫画を描かせる。
	 1908(明治41)大阪に関西女子洋画研究所を開設。1936(昭和
	11)関西女子美術学校教授、1941(昭和16)同校校長。
あかん
	阿観
	1136(保延 2)
	1207
	◇僧侶。
	 承安年間(1171〜1175)に金剛寺(現:大阪府河内長野市天野<ア
	マノ>町)を再興。
	(*)1207(建永 2,承元元)。
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